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2008年4月
番外編

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番外編

 今年に入ってからの私の読書はほぼ次の通りです。それぞれ読み終えた日付を記すと、──

 一月十九日 大西巨人『地獄篇三部作』(光文社)
 一月二十九日 大西巨人『二十一世紀前夜祭』(光文社 絶版 アマゾンで購入
 二月二十三日 大西巨人『大西巨人 文選U』(みすず書房)
 三月?日 大西巨人『大西巨人 文選V』(みすず書房)
 四月十四日 大西巨人『大西巨人 文選W』(みすず書房)

 この他に、トーマス・マン『リヒァルト・ヴァーグナーの苦悩と偉大』(岩波文庫)の何度めかの通読はしていますし、「新潮」誌上の保坂和志の連載「小説をめぐって」は読んでいますけれど、後は一切読んでいないといっていいと思います。
 私はこういうペースでしか読書をしていません。そうして、それでいいと思っています。その私が誰かに薦めるべく日本の現役作家を挙げるなら、即座に答えうるのは、大西巨人と保坂和志だけになります。この二人だけです。

 そんな読書でいいのか、という問い ── それ自体が愚問であるのは承知です ── も想像できますが、そんな読書でいいんです。世のなかには一日一冊ペースで読んで、しかも、それらを他人に薦めるひと ── たとえば書店員ですね ── などもいるようですが、逆に、そういう読書こそ絶対にしてはならないだけでなく、害悪であるとすら私は考えます。

 なんというか、「新刊チェック」強迫症とでも呼べばいいようなものにとり憑かれたひとの読書を、私はばかげていると思っています。「今年のベスト」がどうのこうのというひとたちですね。「今年」なんかどうでもいいんですよ。常に「オールタイムベスト」だけを考えればいいんです。現時点での「オールタイムベスト」を超えるようなものだけを求めていけばいい。

 それに対して「新刊チェック」強迫症のひとたちは、たくさん読んでおかないと、どれがその「オールタイムベスト」を超えるようなものなのかもわからないじゃないか、と反論してくるかもしれません。でも、もし反論してきたら、それこそがそのひとたちの駄目なところなんです。そういう反論をしてくるようなひとだから、「新刊チェック」強迫症なんだということですね。

 なにがいいたいかというと、こうです。いったん自分にとって「これだ!」という読書を経験したひとは、もう自動的に次の本を選ぶことになるんですよ。これは、本の方で呼んでくれるんですから。ほんとうです。私がここで何をいっているのかわからないひと(自動的に次の本に行き当たるという経験のないひと)は、「これだ!」という読書を経験していないひとだということです。私は、次に何を読んだらいいかわからない、と思ったことがありません。

 じゃ、なんでおまえはこのコーナーに書いているんだ? ── というのも愚問で、これについてはいいません。



 そんなことより、大西巨人ですが、つい先日(四月十三日)NHKのETV特集『神聖喜劇ふたたび』(九十分)は、ご覧になりましたでしょうか? 私は感動しました。

 とはいえ、番組のつくりはあまりよいものではなくて、たとえば、大西巨人の生年・年齢を間違えていました。番組では、一九一六年生まれ・九十一歳ということになっていましたけれど、実際の大西巨人は一九一九年八月生まれなので、現在は八十八歳です。こんなことを間違うNHKはどうなんでしょうか? また、エンドクレジットでは出版社「幻冬舎」 ── 『神聖喜劇』のコミック版の版元 ── が「幻冬社」となってもいましたね。こういう誤りをNHKはどう正すんでしょうか?

 私は思うんですが、たとえば「ETV特集」という既成の、形の決まった枠組みで大西巨人と『神聖喜劇』とを紹介しようとしてはいけなかったのじゃないでしょうか? まず「枠」ないし「コーナー」ありきでの企画には限界があるんですよ。これを、「今回は十二時間に枠を広げての放送になります」というふうにやるのなら、いいんです。しかし、最初から九十分という枠が決まっていて、そのなかに全部を収めるというのがよくないんですね。新聞や雑誌の書評もそうです。字数制限なんかですね。しかし、そういう制限なしに、視聴者なり、読者がついてこないという理屈もあるでしょう。また、誰かに情報を伝えるためには「短く簡潔な」表現こそがいいのだなどという理屈も(この「短く簡潔な」というのが曲者なんですよ。私はいまこれの悪い面についてしゃべっています)。そういうものに騙されてはいけません。

 数年前に私はあるサイトから毎月読書案内を書くことを依頼されて、はじめは引き受けていたものを直前になって断わったことがあります。その理由が制限文字数の大幅な縮小で、八〇〇字から最大八五〇字といわれていたものが、最後になっていきなり四〇〇字以内にされてしまったんですね。なぜそれほどに分量が縮小されたのかといえば、その文章をパソコンだけでなく「ケータイ」でも閲覧できるようにしたいからということで、私はうんざりしてしまいました。「結局そっちへ走るわけか」と思い、「だから駄目なんだ」と思いました(「ケータイ」でも読めるようにするということは、単に文字数の問題だけでなくて、書きかたにも ── そうであれば内容にも ── 大きい制限が設けられたということです。その書きかたをも私は拒んだということになります)。
 それにしても、そのサイト運営者とのそれまでのやりとりのなかで、私が文字数はできるだけ多い方がいいといったのは珍しがられて、私と同じようにその仕事を依頼されているひとたち(これは、ひとりが月にひとつの原稿を書くんですが、そういう数名の書き手を起用して、実際のサイトでは週ごとの更新が行なわれます)のなかには「文字数はできるだけ少なくしてほしい、八〇〇字も書くとなると、ちゃんとその本を読み込んでいなくてはならないから」などと口にしたひともいたと聞きました。ちゃんと読み込みもしない本をどうして紹介できるのか、私には到底理解できません。ある作品について、後で自分の読み込みがあまかったと考え直すことがあるとしても、紹介するときには、私はその時点での自分の読みを信じています。そうでなくてはならないでしょう。
 しかし、仮に八五〇字でも私は引き受けなくてよかったでしょう。八五〇字でどうやって『魔の山』(トーマス・マン)を紹介すればいいのかわかりませんから。

「短く簡潔な」表現(の、悪い面)とか決まった「枠」(の、悪い面。「九十分」とか「今年」とか)などによって損なわれるものの大きさを、もっと番組制作者なり、新聞社・出版社の編集者なり、書店員なりは考えるべきだと思います。もちろん、読者も、です。

 そうして、「短く簡潔な」表現(の、悪い面)とか決まった「枠」(の、悪い面)を否定する仕事をしているのが、大西巨人と保坂和志だと私は考えているんです。

(二〇〇八年五月四日 加筆修正)


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