| 2008年1月 | |
| 番外編 |
| 番外編 |
このホームページに限らず、これまで私が何度も引用してきた文章ですが、 わたしは一度「しばらく真面目になってみてはいかがでしょう」と提案した、真理は、苦い真理ですら、間接的にではあるが長い間には、真理の犠牲において共同体に奉仕しようとする思想よりも、共同体にとって役立つのであって、真理を否定する思想は実際には真の共同体の根柢を内側からこの上なく無気味に崩壊させるのだから、共同体の危機を深く憂慮する思想家は、共同体ではなく、真理を目標とした方がよいのではなかろうかということを、しばらく真面目に考えてみようと言ったのである。しかし、わたしは生涯においてこれほど完全になんの反響もなく黙殺された言葉を言ったことがない。 (トーマス・マン『ファウストゥス博士』 円子修平訳 新潮社)
どうですか? わかりやすく区切ってみますか? 真理は、苦い真理ですら、間接的にではあるが長い間には、…… 真理の犠牲において共同体に奉仕しようとする思想よりも、共同体にとって役立つのであって…… いまのところをもう一度、 真理の犠牲において共同体に奉仕しようとする思想よりも、共同体にとって役立つのであって…… そうして、 真理を否定する思想は実際には真の共同体の根柢を内側からこの上なく無気味に崩壊させるのだから、…… 共同体の危機を深く憂慮する思想家は、共同体ではなく、真理を目標とした方がよいのではなかろうか…… 以下の文章の原型は昨二〇〇七年四月にこのコーナーで書いた『ムッシュー・テスト』紹介の原稿です。それがあまりにも舌足らずであったために、私は、夏になって個人的に大きく加筆修正していたんです(このホームページではいまも当初のままですが)。で、今回の文章は、その夏の長文を逆に大きく削ってみたものです。まあ、どのみち、私はいつも同じことしかいわないんですけれど。 おかげでわかったのだが、われわれは自分の考えるところを、何とあまりにも他人の考えの表現形態に従って、判断していることか! そうわかるまでは無数の言葉がわたしの耳もとでぶんぶん唸っていたが、以後、それらの言葉に託された意味がわたしを揺り動かすことはめったになくなった。そしてわたし自身が他人に向かって言葉を口にするたびにわたしの感じたのは、その言葉がどれもこれも、わたし自身の思考とはちがうということだった。── 口に出したとたんに言葉は変えようがなくなるからである。 (ポール・ヴァレリー『ムッシュー・テスト』 清水徹訳 岩波文庫) 誰でも、何でもいうことができる。だから、 何をいいうるか、ではない。 何をいいえないか、だ。 (長田弘「魂は」 みすず書房『一日の終わりの詩集』所収) かつて、「ことばは通じない」・「ことばには限界がある」と考え、「いつかは自分もことばを見つけることができるだろう」と考えた私は、いまだに誰の口からも発せられていない・誰もことばにしたことのないもの・名まえを与えられていないものがたしかにあるといっているんです。それがいつか単純にひとことで・一語で・ひとつの名詞として表現されるだろうなんていっているのじゃありません。たとえば、それはある作家がひとつの作品全体を通して、やっとその片鱗を示すことが可能になるというくらいのものだと考えているんですね(これは、逆にいうと、そういうことを目指さないものを私は「作品」と呼ばないということです)。 その私は時間がほしかったんですね。誰かに即答を迫られる・背中をどやされるというのが苦痛でした。頼むから放っておいてくれ、静かにしている時間をくれ、と思っていた。ことばを発するためには時間がいる、あることばに至るためにはふつうに考えられているよりはるかにたくさんの時間が必要だ、と思っていたんです。 僕は詩も幾つか書いた。しかし年少にして詩を書くほど、およそ無意味なことはない。詩はいつまでも根気よく待たねばならぬのだ。人は一生かかって、しかもできれば七十年あるいは八十年かかって、まず蜂のように蜜と意味を集めねばならぬ。そうしてやっと最後に、おそらくわずか十行の立派な詩が書けるだろう。詩は人の考えるように感情ではない。詩がもし感情だったら、年少にしてすでにあり余るほど持っていなければならぬ。詩はほんとうは経験なのだ。一行の詩のためには、あまたの都市、あまたの人々、あまたの書物を見なければならぬ。あまたの禽獣を知らねばならぬ。 (リルケ『マルテの手記』 大山定一訳 新潮文庫) まったく時間というものの速度があまりにも速いために、私は防戦一方というふうでした。これはいまでもそうです。とにかく、私は時間に対して、こんなにも速く進まなくてもいいだろうに、と恨みがましく思うわけです。おそらく「ことばを見つける」ということは「時間を引き延ばす・引き留める・止める」ということに結んでいるだろうと私は思っています。また、小説家が小説を書くということは「時間を引き延ばす・引き留める・止める」という行為でもあるだろうとも思うんです。 私はこういう私のような読み手のいることを想定していない書き手の書くことをまったく信用しません。読者の受け取りがステレオタイプのものだと考えて、ステレオタイプの表現をしさえすればいいだろうと考えている書き手です。たくさんいます。 しかし、どうやら世のなかの大多数の読者はそうではないらしい。書き手の「敢えて書く」なんていう事情が端から見えていないらしい。つまり、書き手が「敢えて」なんてことを全然しなくても、「もちろん、受け取って感動しますとも」という姿勢でいるらしいんです。彼らは真摯な書き手に向かって怪訝な顔をすることになります。──「え、なにかご不満でも?」 「みんな」のよく使うことばで表現しよう、そうすれば、「みんな」によく伝えることができるから。自分が感じたり、考えたりすることを「みんな」のよく使うことばに翻訳してみよう。そうすれば、「みんな」によく伝えることができるから。いやいや、それよりも、最初から「みんな」のよく使うことばに従って感じたり、考えたりしよう。そうすれば、翻訳なんかしなくたって、「みんな」によく伝えることができるから。そうすれば、誰に対しても自分の感じたり、考えたりすることを説明しなくてすむから。自分だけの感じかただの、考えかただののあるはずもないじゃないか。そんなものがあったって、しかたがない。そんなもののことなんか、考えたくもない。もし、考えるとするなら、そのための表現を自分でつくり出さなくちゃならないじゃないか。つくり出せたとして、それが誰にわかってもらえるんだい? わかる奴なんかいないじゃないか! ── と考えている ── いや、ここまですら頭にも浮かばないかもしれない ── 書き手(自称「小説家」)ではない書き手を探すことの方がいまでは困難なのではないですか? そこで、もう一度読み返してもらいましょうか? おかげでわかったのだが、われわれは自分の考えるところを、何とあまりにも他人の考えの表現形態に従って、判断していることか! そうわかるまでは無数の言葉がわたしの耳もとでぶんぶん唸っていたが、以後、それらの言葉に託された意味がわたしを揺り動かすことはめったになくなった。そしてわたし自身が他人に向かって言葉を口にするたびにわたしの感じたのは、その言葉がどれもこれも、わたし自身の思考とはちがうということだった。── 口に出したとたんに言葉は変えようがなくなるからである。 (ポール・ヴァレリー『ムッシュー・テスト』 清水徹訳 岩波文庫) 書き手は、自分の文章が読者にどう読まれるかを予測して書かなくてはならない ── しかし、読者のために書くのではない ── けれども、そこで彼の想定している読み手の読書レヴェルは一定以上に優れているものでなくてはならない、と私は考えています。このような考えは、書き手が彼の作品においてなしうることの限界 ── 一定以上の読書レヴェルにはある読者とはいえ、書き手は結局そういう、彼にとって現実の、生身の他人のなかに想像しうる・ありうるはずの読者に合わせざるをえない ── を意味するのではないか、という疑問も出るでしょうが、それこそが、その不自由さこそがことばで表現するということです。 たしかに「作品」は読まれなければならないんですが、それは、一定以上に優れた読者に読みうるものならば、それでいいんです。それさえクリアできれば ── といういいかたも変で、それをクリアしていないものは「作品」ではないんですが ── 、書き手は読者よりも、自分よりも「作品」を優先します。ひたすら「作品」に自分を合わせていく、つまり、「作品」に奉仕していくわけです。また、読者は「作品」が自分のレヴェルに合わせて書かれているなどと思ってはいけません(こう思っている読者の方が大多数なのじゃありませんか?)。違うんですよ。読者が「作品」のレヴェルまで自分を持ち上げていかなくてはならないんです。 (しかし、実は、その「一定以上に優れた読者」というのは、書き手自身に他ならないんですけれど)。 そのような仕事をしている書き手の作品 ── 一定以上の読書レヴェルの読者に訴える ── のなかに、ときおり、もっと低い、あるいは、恐ろしく低いレヴェルの読者たちまでもを動かしてしまうような作品の生まれることがありえます。ベストセラーであって、しかも、優れているという作品 ── こういうことが、ときたま、ありえます。「ときたま」でなく、普段はどうなのかといえば、もちろん、一定以上の読書レヴェルの読者が洟も引っかけない類の「(自称)作品」ばかりがベストセラーになるわけです。ベストセラーというのは基本的には蔑称に他なりません。 こういったところで、ちょっと思い出したのは、ワーグナーにふれてトーマス・マンがニーチェを引きつつ書いた文章からで、ある種の芸術家には次のような本能があるといいます。 ……洗練された少数者の欲求を満足させてこれを捉えるとともに、多数者の善良な欲求にも応えてこれを取りこもうとする本能…… (トーマス・マン『非政治的人間の考察』 森川俊夫訳 新潮社) それで、この種の芸術家にとっての成功とは、 ……芸術家のあいだでの成功と同時に市民のあいだでの成功である。 (同)
トーマス・マンはワーグナーがそのような成功をおさめた芸術家だといい、さらに当の自分もそうなのだといいます。 ここで私が、「成功」についてなら経験で、ささやかな経験で物が言えると言い添えても、少々自惚れているなどと思わないでいただきたい! 私は成功を、数ある人生体験のひとつと見ている、そして、成功は成功した者をかなり曖昧な形で性格づけることも知っている。ありていに定義すると、成功とは、この男は馬鹿者たちさえ味方にしたかったのだ、ということを意味している…… (同) しかし、そのような「成功」とは全然無縁のところで思索する人間があるだろう、そもそもそれを誰にも話したりなんかせず、公的な発表なんかとんでもないという人間があるだろう、とヴァレリーは書きます。 そこでわたしは夢想した、もっとも強靭な頭脳、もっとも明敏な発明家、もっとも正確に思想を認識するひとは、かならずや、無名のひと、おのれを出し惜しむひと、告白することなく死んでゆくひとにちがいない、と。 (ポール・ヴァレリー『ムッシュー・テスト』 清水徹訳 岩波文庫) これは、「もっとも強靭な頭脳、もっとも明敏な発明家、もっとも正確に思想を認識するひと」があるとき自分の考えていることを公表し、そのために有名にまでなってしまうようなことがあれば、彼のそもそも考えていたことが損なわれるだろうということです。彼が自分の「耳もとでぶんぶん唸っていた」ことばを使いはじめる、つまり、「他人の考えの表現形態に従って」話しはじめたとたんに、彼の思考は変質してしまうんです。そうなったら、もう駄目です。彼は恐ろしい不自由にとらわれてしまいます。彼にはもはやそもそもの思考をつづけることができません。 というわけで、 そうした人びとの生き方がわたしに開示されたのは、他でもない、彼らほど志操堅固でもないため名声赫々たる生き方をしている人びとによってなのである。 この帰結はじつに容易だった。結論の形成されてゆく過程が、毎秒毎秒、眼にはっきりと見えたほどだ。ふつうの偉人をまず思いうかべ、出発点で彼らが間違いという汚れに染まっていない、というか最初の間違いそのものに寄りかかっていない姿を想像してみるだけで、彼らより一段と高い意識、彼らほど粗雑ではない精神の自由の感覚が何であるかを理解することができた。こうした単純な操作をしてみただけで、まるで海底に降りたったような奇妙なひろがりが、わたしに開けてくるのだった。 (同)
つづけて、 それは、透明な生活を営んでまったくひとめにつかず、孤独に生きて、世のだれよりも先がけて理を知っているひとたちだ。無名に生きながら、彼らはいかなる著名な人物を二倍に、三倍に、数倍に偉大にした人物だとわたしには思えた、── 幸運をつかもうと、独自の成果を挙げようと、それを世に示すことなど軽蔑している彼ら。 (同) 私はこの作品で描かれている、誰も試みたことのない形で考える、というその可能性に惹かれたわけです。世のなかのひとたちのいまだ知りえていない思考方法がある、世のなかのひとたちの使っていることばには限界がある、世のなかのひとたちがどう理解するのかということを ── 横目にはしつつも ── おかまいなしにした思考がありうる、他人に伝えられない思考がありうる、という私自身の漠然とした予感を、この作品が後押ししてくれているような気がしたんですね。さらに、そういうことを、しかし、ことばによって表現しようと試みつづけたヴァレリーに感心するのでもあります。 それと、この作品を読みながら、私の思い浮かべていた他の作家の作品に、J・D・サリンジャーの「シーモア ─ 序章 ─」(井上謙治訳 新潮文庫『大工よ、屋根の梁を高く上げよ』所収)とポール・オースターの『孤独の発明』(柴田元幸訳 新潮文庫)があります。それぞれ、もうだいぶ以前に読んだので、私の思ったように『ムッシュー・テスト』としっかり照応するかどうか自信がありませんけれど。あ、それから、田中小実昌の「北川はぼくに」(河出文庫『ポロポロ』所収)も読んでもらえるといいかもしれませんね。どれも、それぞれの語り手が、誰かのことをことばで表現しようとして、自分のことばを素朴に信じることのできないために、苦しむんですね。そろって口ごもります。その口ごもりこそ、語り手の誠実さを示します。覚えておいてほしいんですが、口ごもる語り手こそが信頼できる語り手です。 それぞれに少しずつだけ引用してみますが、 ここで断わっておくが、これからわたしの傍白はやたらと多くなるばかりでなく(実際、脚注まで一、二つけるようになるかもしれない)、時としては本来の筋から外れたものでも、刺激的で面白くそのほうへ話を進めてゆく価値があると思えば、自分としては遠慮なく読者に負担をかけるつもりである。この際、スピードなどということは、神よ、アメリカ人としてのわが身の安全を守りたまえ、わたしには何の意味もないのだ。しかし読者の中にはもっとも抑制のきいた、もっとも古典的な、おそらくはもっとも巧妙な方法で関心を惹いてほしいと、真面目に要求する人たちもいるので、わたしとしては ── 一人の作家としてこうしたことが言えるかぎり、できるだけ正直に申し上げるが ── そうした読者は立ち去ったほうがいいと申し上げておく。 (サリンジャー「シーモア ─ 序章 ─」 井上謙二訳 新潮文庫『大工よ、屋根の梁を高く上げよ』所収) 何かが私を妨げているような、呪いをかけているような気がする。書こうという気持ちはあるのに、どうにも集中できないのだ。自分の思考が眼前の問題から離れていってしまうのを私は何度も、なすすべもなく眺めてきた。ある事柄を思いついたとたん、それが別の事柄を喚起し、さらにまた別の事柄につながってゆく。やがておそろしく濃密なディテールの蓄積ができ上がり、ほとんど息が詰まりそうになる。考えることと書くこととのあいだの裂け目を、これほど痛感させられたのははじめてだ。実際、ここ数日、自分が語ろうとしている物語は、実は言語とは両立しえないのではないか、そんな気さえしてきている。おそらく、物語が言語に抗えば抗うほど、それは私が何か大切なことを言いうる地点に近づいた証しにほかならない。だが、まさに唯一真に大切なことを(かりにそんなものがあるとして)言うべき瞬間に達したとき、私はそれを言うことができないだろう ── そんな気がするのである。 (ポール・オースター『孤独の発明』 柴田元幸訳 新潮文庫) だが、こんな物語は北川にはしゃべれない。あのとき、北川がぼくにはなしてくれたのとは内容がちがうというのではない。内容もちがうだろうが、内容の問題ではない。 いや、それを内容にしてしまったのが、ぼくのウソだった。あのとき、北川がぼくにはなした、そのことがすべてなのに、ぼくは、その内容を物語にした。 (田中小実昌「北川はぼくに」 河出文庫『ポロポロ』所収) |