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2007年6月
番外編

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番外編


 いま大西巨人の『深淵』(光文社)の再読をしていて、数日前に上巻を読み終えたんですが、その終わりの方に、こういう文章があります。

 ── イプセン作戯曲『民衆の敵』最終第五幕の幕切れで、主人公の医師ストックマンは、「独り立つ者、最も強し。」と断言する。レーニンは、その『民衆の敵』あるいはイプセン作劇詩『ブラント』の『一切か無か』というような考え方に、語の悪しき意味における『ニイチェ主義』を看取し、そういうイプセンを否定的に批判した。レーニンなりブレヒトなりの尊重・主唱したのが「<連帯>の重要性」であることは、疑いない。
 伊藤弁辯士も、「<連帯>の重要性」を十二分に認識・尊重する。ただ、彼の確信において、<連帯>とは、断じて<恃衆(衆を恃むこと)または恃勢(勢を恃むこと)>ではない。彼の確信において、「正しくても、一人では行かない(行き得ない)」者たちが手を握り合うのは、真の<連帯>ではないところの「衆ないし勢を恃むこと」でしかなく、真の<連帯>とは、「正しいなら、一人でも行く」者たちが手を握り合うことであり、それこそが、人間の(長い目で見た)当為にほかならず、「<連帯>とは、ただちに<恃衆>または<恃勢>を指示する」とする近視眼的な行き方は、すなわちスターリン主義ないし似非マルクス(共産)主義であり、とど本源的・典型的な絶対主義ないしファシズムと択ぶ所がない。
(大西巨人『深淵』 光文社)

 そこでの、

「正しいなら、一人でも行く」

 ── に私はとても感銘を受けたんですね。

 すこし前にようやく刊行された、やはり大西巨人の『未完結の問い』(聞き手 鎌田哲哉  作品社)の帯の背の部分にはこうありました ──「ただ一人でも行くということ」。

 それで、この数日、私は何度も「ただ一人でも行く」ということばを思い起こして自分に力の回復するのを確認するんです。

「ぼくはこの世界で自分が正当に権利を主張しうるものは、なにひとつなくなってしまった、という風に感じていたのさ」
(大江健三郎『個人的な体験』 新潮文庫)

 ── なんて先月は書いていたんですけれど。

 どうですか?「ただ一人でも行く」と「この世界で自分が正当に権利を主張しうるものは、なにひとつなくなってしまった」とのこの開きは。

 私が「ただ一人でも行く」をどう考えているかというと、これを「ただ一人でも読む」と読み換える。あるいは、その読書経験を「ただ一人でも伝える」と読み換えます。で、それは、誰に伝えるのかというと、「もしかすると、この本を読んでいるのは自分だけなのかもしれない」とか「この本をよいと思っているのは自分だけかもしれない」という予感を抱きつつ、「ただ一人でも読む」・「ただ一人でもこの本をよいと思う」ということのできる読者ということになります。そういう読者を想定しての「読書案内」というのが、最もよい「読書案内」なんじゃないかと思うんですね。つまり、「みんなが読んでいるから私も読む」・「作品のよしあしの判断は他人に任せる」のでしかない読者に向けての「読書案内」ではない、ということです。

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