| 2007年4月 | |
| ムッシュー・テスト(ポール・ヴァレリー) |
| われわれは自分の考えるところを、何とあまりにも他人の考えの表現形態に従って、判断していることか! そしてわたし自身が他人に向かって言葉を口にするたびにわたしの感じたのは、その言葉がどれもこれも、わたし自身の思考とはちがうということだった。 |
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ポール・ヴァレリー 清水徹 訳 岩波文庫 500円+税 |
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この作品のことはずっと気にはしていて、だいぶ以前に、いつ購入したのか覚えてはいないんですけれど、福武文庫での『テスト氏』(粟津則雄訳 一九九〇年)を読みかけにしたままでした。途中で挫折してしまったんですね。新訳としての『ムッシュー・テスト』(清水徹訳 二〇〇四年)ももちろん知っていました。それで、先月、店頭にあるこの本を手に取って、いくらかを立ち読みしてみて、やはりどうしても気になる、とても惹かれる箇所があって、購入したんです。で、読み進めるなかで、旧訳の『テスト氏』を本棚から引っぱりだしてみると、「やはりどうしても気になる、とても惹かれる」といま私がいったちょうどその部分に、自分で引いた赤鉛筆の線があるじゃないですか。笑ってしまいました。それを清水訳で引用すると、たとえば、 おかげでわかったのだが、われわれは自分の考えるところを、何とあまりにも他人の考えの表現形態に従って、判断していることか! そうわかるまでは無数の言葉がわたしの耳もとでぶんぶん唸っていたが、以後、それらの言葉に託された意味がわたしを揺り動かすことはめったになくなった。そしてわたし自身が他人に向かって言葉を口にするたびにわたしの感じたのは、その言葉がどれもこれも、わたし自身の思考とはちがうということだった。── 口に出したとたんに言葉は変えようがなくなるからである。 ── です。この部分だけをいまいきなり読まされてもなんだかわからないでしょうね。 これにぴったり当てはまるということではないんですが、私がこれをどんなふうに読むに至ったかということでの、わかりやすい例を ── 私自身の経験から ── 挙げてみますが、ざっとこういうことです。 ある時期の私に対して何人もの友人が、「お前がそんなふうになってしまったのは、彼女にふられたからだ」といいつづけたということがありまして、それにつづいてのやりとりのなかで、私はその友人たちを切り捨ててしまうということになったんですね。「この先一生、自分はひとりの友人もなしにやっていく」とたしかに私は考えたんですよ。そのとき私が考えていたのが、「ことばは通じない」・「ことばには限界がある」ということでした。「お前がそんなふうになってしまったのは、彼女にふられたからだ」なんていう、あまりにもわかりやすい図式化が私にはどうしても承服できなかったんですね。「……だからこうなった」「その理由は……だ」とか、「所詮……だ」とか「結局……だ」とか、あまりにも誰の頭にもとりあえずは浮かびそうな思考方法を、私はおかしいと思ったんです。そんなことでなく、もっとべつの、なにか誰の考えたこともない説明のしかたがあるのじゃないか。しかし、ひとはすぐに「あまりにもわかりやすい図式化」に飛びついてしまう。もちろん、そうしたものに飛びつくこと・割り切ることが、生活をしていくのに楽というか便利というか、健康的でありはするだろうとは思いました。しかし、それでも私が「そんなふうになってしまったのは、彼女にふられたからだ」には認め難いなにかがあって、そんな図式化で日々を処理しているような、そういう連中とはこの先必ず相容れなくなるだろうという気がしていたわけです。私は自分がそういう説明をされて誰かに「なるほどねえ」などといわれたくなかったし、それとはべつに、自分で自分にそんな説明をしたくなかったんです。その説明は明らかに間違いだから、です。 私はこういう私のような読み手のいることを想定していない書き手の書くことをまったく信用しません。読者の受け取りがステレオタイプのものだと考えて、ステレオタイプの表現をしさえすればいいだろうと考えている書き手です。たとえば ── これもいまの私の経験と同様、適切ではないですが ── 、「きょう妻が死んだ。結婚生活五十七年、幸せだった」という文章の書き手が、そんなことを書けば「まさか」とか「嘘だろう」とかいう反応を引き起こすことを予測もしないで書いてはいけない、つまり、この書き手は必ず自分の書くことを「敢えて書く」のでなくてはならないと考えているんですね。 しかし、どうやら世のなかの大多数のひとたちはそうではないらしい。私は自分の生き難さを感じなくてはなりません。 どうでしょう? いくらかは参考になりましたか? われわれは自分の考えるところを、何とあまりにも他人の考えの表現形態に従って、判断していることか! そしてわたし自身が他人に向かって言葉を口にするたびにわたしの感じたのは、その言葉がどれもこれも、わたし自身の思考とはちがうということだった。 というわけで、そういうことをいう「わたし」がムッシュー・テスト自身なのかというと、そうじゃないんですね。 やがて、そんなことも考えなくなりはじめたころ、わたしはムッシュー・テストと知り合った。(いまわたしは、ひとりの男が毎日小さな空間を動きまわって残してゆく軌跡のことを考えている。) あるいは、誰か(いま引用した「わたし」ではないかもしれません)に向けてムッシュー・テストの妻が手紙を書きます。 もちろん、あなたにはなんにもお隠ししたくない、ほとんどなんでもお話ししたいと思っているので、申すのですが、あのひと、とても無情になることがありますの。あんなに無情になれるひとがいるなんて、わたくしには考えられません。ただのひと言でこちらの心をたたき壊してしまう、そんなときは、自分がまるで陶工の手で屑のなかに放りこまれる出来損ないの壷みたいな気がしてきます。あのひと、まるで天使みたいに無情なんです。自分で自分の力に気がついていません。たとえば、思いもよらぬときにふとあのひとの口をついて出る言葉があまりにも真実でありすぎるので、その言葉を聴くと、世のなかの人びとはなんとも馬鹿な生き方をしている自分の姿に目覚め、ありのままでいる状態と、愚かしさを糧としてじつに自然にしている暮らしぶりにがんじがらめになっているありさまを、われとわが前に突きつけられるのです。 また、 そこで、わたくしは神父さまに申しました。主人を見ていると神なき神秘家というものを考えることがとてもよくあります……、と。 それを受けて神父の口にするのが、「光かがやく無意味!」などなどなんですね。 ともあれ、先月にこの『ムッシュー・テスト』を私は二度読みましたよ、一度めなんかは途中でもうすっかり理解不能という状態で、二度めにはそれがいくらかぼんやりとわかってくる(誤読のせいでそんな気になったのかもしれません)という感じで。 |