home

2007年3月
拳闘士の休息(トム・ジョーンズ)

.

「真実をありのままに語る勇気をもった人間がいたってことですよ」
拳闘士の休息

トム・ジョーンズ 岸本佐知子 訳

新潮社 絶版


 トム・ジョーンスの短編集『拳闘士の休息』(新潮社 一九九六年)はすでに絶版 ── 文庫にもならなかった ── です。出版時には帯に村上春樹の文章(『うずまき猫のみつけかた』からの)が引用されてもいました。その絡みでいえば、『月曜日は最悪だとみんなは言うけれど』(中央公論新社 村上春樹翻訳ライブラリー)でも編訳者村上春樹の文章につづいて、トム・ジョーンズのエッセイ「私は天才……だぜ!」── 読んでみてください ── が収録されてもいます。
 さて、『拳闘士の休息』には「わたしは生きたい!」という、癌に冒されて余命いくばくもないという老婦人の話があるんですね。彼女、夫はすでに亡くなっていまして、それからずっとひとりで生活していたんですが、癌告知から治療の過程 ── 自分のことを誰も理解してくれない ── で、娘夫婦の厄介になります。あるとき痛みに耐えかねて、彼女は娘の夫=義理の息子にこういいます。

 ……「三錠のんでもいいかしら?」
 すると彼は「なに、四錠のんだっていい、べつに危険な薬じゃないんだから。痛みがひどいんなら、四錠のめばいいんですよ」と言った。彼女は目を丸くした。「コーヒーを一緒にのむといいですよ。そうすれば早く効く」
 本当にそのとおりだった。この人はお医者よりもよほど物を知っている。なんでもかんでも杓子定規でやるのが間違いなのだ。


 そんなふうで、彼女はこの義理の息子を見直します。彼女からすると、彼は、「え? そんなことしちゃってもいいの?」ということに対して「もちろん。どんどんおやりなさい」といい切ってくれるひとなんですね。彼女に未知の考えかたを提示してくれるひと、新しい世界観をもたらしてくれるひとだということです。この彼の背後に、実在の、ある哲学者・思想家がいます。ショーペンハウアーです。長い引用をしますが、

 ある日の夕方、義理の息子が勤めに出ていったあと、擦り切れてボロボロになった彼のショーペンハウアーの本の中に、四角く囲った箇所があるのが見つかった ──「若き日に、来たるべき未来に思いを馳せるとき、我々はさながら開幕前の劇場に座り、カーテンが上がるのを胸ときめかせて待っている子供である。待ち受けている現実を知らずにいることは、我々にとっては幸いである」。ほんとに、そのとおりだわ! 彼女はクロスワードを放り出して、むさぼるように『意志と表象としての世界』を読んだ。このショーペンハウアーっていう人は天才だわ! どうして誰も教えてくれなかったのよ? 読書は好きで、若いころは苦労して哲学書を読んだこともあったけれど、何のことやらさっぱりだった。なにしろ難しい専門用語が多すぎる。クロスワードでは誰にも負けない自信があるけれど、終末論なんて言葉を出されたんでは、お手上げだ。けれどもショーペンハウアーは、ものごとの核心にずばりと切り込んでいく。人生で本当に大切なことについて語ってくれる。ショーペンハウアーと一緒なら、すぐそこまで迫った死の恐怖からのがれて遠くまで旅することができる。ショーペンハウアーの、とりわけ警句と反省に、彼女は深く共鳴した。ショーペンハウアーだけが真実を語ってくれる。それ以外のものは、みんな嘘っぱちの垂れ流しだ!
 義理の息子の助けを借りて、彼女はやり残した仕事を片づけた。遺言状、家のローン、保険金、あれはどうする、こっちは、そしてあれは? 火葬の手配、葬儀の段取り、エトセトラ。義理の息子は、娘が彼女に言いたくて言えずにいることを代わりに伝えた。それもタイミングを見計らって、さらりと言ってのけた ── たとえば、娘が本当は彼女のことをとても愛していて、けれどもそれを言えずにいるのだということも。そう言われて彼女は内心、胸を突かれる思いがした。自分もまったく同じだったからだ ── そして、彼はそのことにもちゃんと気づいているらしかった。どうして実の娘に、たった一言「愛している」と言えないのだろう? わからない。どうしてもできないのだ。けれども義理の息子は彼女を責めたりしなかった。この人だって、いろいろ大変だろうに。わたしのせいで、家じゅうが暗い気持ちになっているんじゃないだろうか? それでショーペンハウアーなんか読んでいるのだろうか? しかし、彼は本当にショーペンハウアーが好きなのだった。「真実をありのままに語る勇気をもった人間がいたってことですよ」冷蔵庫に貼った、頬ひげをたくわえた気むずかしそうな老人の写真を見ながら、義理の息子はよくそんなふうに言った。二十六歳の誕生日を迎える前に、すでに代表作を書き上げていたこと。しかし、その哲学は生前にはほとんど見向きもされず、現代の、このご時勢でさえ、厳密には哲学というよりも芸術作品とみなされていること。これが芸術作品? どこから見ても立派に思想なのに! 義理の息子によれば、ショーペンハウアーは生涯の大半を、フランクフルトの古い屋敷町で過ごした。つましい借間に、つねにプードル犬たちと暮らし、書をひもとき、思索し、気の向くままに人生について書きつづった。ちょっとした遺産があったおかげで、そんな暮らしでも食うには困らず、時には音楽を聞きに足を運び、ささやかな旅に出ることもできた。彼はまた語学の達人だった。東洋の書物を含めて、古代ギリシャ以降に書かれた書物という書物を読破した古典学者でもあり、ものごとをとことん突きつめ、人生の謎を解きあかす粘り強い意志の持ち主だった。義理の息子は嬉々として、あのフロイトも歴史上の六賢人の一人にショーペンハウアーを挙げているし、ニーチェもトーマス・マンも、生前は ペシミスト の一言で片づけられていたこの天才に賛辞を捧げているのだ、と解説した。その彼の本も、最近は絶版になるものが増え、だんだんと手に入りにくくなってきたといって、義理の息子は嘆く。いつかはショーペンハウアーの小さな胸像を探しにフランクフルトまで行きたいと彼は言う。ドイツのお役所に手紙で問い合わせたが、取り合ってもらえなかった。だから、行って自分で探すしかないだろう。聞いているうちに、だんだん彼女まで、この人の本が手に入らなくなったらどうしようと気が気でなくなってきた……おかしな話だ、もうじき死んで蛆の餌になる身だというのに。
 なぜかって?「真実」には価値があるからだ。それ以外のことは問題じゃない。これまでの十年間、静かに隠遁生活を送ってきて、何かについて考え、思いをめぐらせる時間はたっぷりあったはずなのに、けっきょく何ひとつ悟ることができなかった。しかし今、歴史から奇妙に取り残された、白い頬ひげの一人の天才が、彼女の目を開かせてくれた。その人の書いたものが、年々手に入りにくくなっているという。このままだと、彼は十九世紀という時代につけられたただの注釈でしかなくなってしまうかもしれない ── 変人、物騒な思想に取りつかれていた輩、ヒポコンドリア、女嫌い、いつも枕の下に拳銃を入れていた被害妄想狂、欠陥だらけの人間。たしかにそうかもしれない、でも叩いて埃の出ない人間なんて、この世の中にいるだろうか?
(トム・ジョーンズ「私は生きたい!」 岸本佐知子訳 新潮社)


 というわけなんですが、どうですか、ショーペンハウアー?

「真実をありのままに語る勇気をもった人間がいたってことですよ」

 彼の著作がいまでは手に入りにくくなっているということに対する彼女の反応はどうですか?

 聞いているうちに、だんだん彼女まで、この人の本が手に入らなくなったらどうしようと気が気でなくなってきた……おかしな話だ、もうじき死んで蛆の餌になる身だというのに。
 なぜかって?「真実」には価値があるからだ。



 私はもう何年も前に白水社の『ショーペンハウアー全集』(復刊)を ── 予約までして ── 買ってあるんですが、まだ読んでいないんです(しかも、ほとんどの巻がまだ実家に置きっぱなしです)。それにもかかわらず、すでにある程度は読んだ気になってしまっているんですね(でも、「読んだ気」はよくありません)。それというのも、トム・ジョーンズの文章にもありましたが、ニーチェやトーマス・マンを読んでいると、頻繁にショーペンハウアーの名が登場するんですよ。

 しかしある日のことトーマスが、半ば探し、半ば偶然手に入ったある本をたっぷり四時間、感動を募らせながら読んだのは、ここの東屋だった。黄色い籐の小さな揺り椅子に坐ってのことだった……二度めの朝食を済ませ、喫煙室で紙巻を吸っている時にその本が書架の隅っこに大きな本のかげになって隠れているのを見つけたトーマスは、かつて何年も前に本屋で何気なしに特価で買ったことを思い出した。印刷も製本もよくない、薄くて黄ばんだ紙が使ってある、分厚い本だったが、ある有名な形而上学体系の第二部だけが収まっていた……トーマスはこれを携えて庭に出ると、すっかり心を奪われて、ページを一枚一枚めくっていった……
 トーマスは、未知の、大きな、ありがたい満足感に溢れた。ここに圧倒的にすぐれた頭脳が人生を、この強力で残酷で侮蔑的な人生を掴まえて、圧伏し、断罪するのを見て、たとえようもない満足を覚えた……それは、人生の冷たさ厳しさを前にして、いつも恥ずかしい思いで、良心に痛みを覚えながら己れの悩みを隠し続けてきた悩める男が、突然偉大な賢者の手から、この世界のために悩む根本的な厳粛な権利を授けられる、そういう満足なのである ── 考えられる世界のうちで最善のこの世界が、実は考えられる世界のうちで最悪のものだと、冗談めかした侮蔑をこめて証明されているからであった。
 トーマスはすべてを理解したわけではない。原則や前提ははっきりしないままだったし、こういう読書に不慣れな頭では、ある種の思考過程にはついて行けなかった。しかし光と闇、意味のとれないうっとうしさ、漠然たる予感と不意の開眼、これが交代で訪れるからこそトーマスは息を呑む思いであった。そして、本から目をあげもせず、椅子に坐った姿勢を変えもしないままに数時間が過ぎた。
 初めのうちは、読まないで飛ばしたページが多く、無意識的に心せくまま本論というか、ほんとうに重要な部分を求めてどんどん先に進み、心を惹かれた数節だけを頭に入れた。しかしやがてぶつかった長い章は、唇をきりりと結び、眉を寄せ、真剣に、表情には完全な、まるで生命のない、周囲のどんな生命の動きにも影響されない厳粛さを漂わせて、最初の一字から最後の一字にいたるまで、あますところなく読んだ。ところで、この章には『死、ならびにわれらの本質自体の不壊性に対する死の関係について』という題がついていた。
(トーマス・マン『ブデンブローク家の人々』 森川俊夫訳 新潮社)


 どうですか?

「人生を、この強力で残酷で侮蔑的な人生を掴まえて、圧伏し、断罪する」

「考えられる世界のうちで最善のこの世界が、実は考えられる世界のうちで最悪のものだと、冗談めかした侮蔑をこめて証明されている」

 「わたしは生きたい!」のヒロインが感化されるのも当然という感じでしょうか。

 それでまた、同じトーマス・マンから。

 私の目に、あの郊外の小さな、高い階の部屋がはっきり浮んでくる。十六年前、私はこの部屋の奇妙な形をした長肱掛椅子というかカナペーというか、それに寝そべって幾日も『意志と表象としての世界』を読み続けたものである。孤独で不規則な、世間と死とに憧れている青春 ── この青春は、エロティークを最奥の本質とし、私がトリスタン音楽の精神的源泉と認めたこの形而上学の媚酒をいかにむさぼりすすったことだろう! このような本の読み方は一度しか経験しないものだ。こういうことは二度とないものなのだ。そして、このような体験を自分のうちにとじこめておく必要がなく、これについて証言し、これに感謝する素晴らしい機会がすぐに現われて、これを納める文学的な場が手近に用意されていたというのは、何という幸運だったろう! それと言うのも、私のカナペーから二歩のところに、実際に本になるとは思えないくらいの分量に膨れあがったあの原稿がひろげられていたからである ── これは、あの特異な青年時代の重荷であり、威信であり、故郷であり、祝福であって、これに世間に迎えられる性格と見込みがあるかという点になると、いたって疑問だった ──、当時この原稿はちょうどトーマス・ブデンブロークを死なせなければならないところまで書かれていたのである。
(トーマス・マン『非政治的人間の考察』 森川俊夫訳 新潮社)


 マンの『ブデンブローク家の人々』は以前にこのコーナーで採りあげましたし、トーマスの「疲労」についても特に触れたはずですが、そういうわけでショーペンハウアーです。このひとが現代アメリカの小説家にこうも採りあげられているのを知るのはとてもよいことだと思えます。私も癌の老婦人のように、彼の著作が失われていくことを心配します。

home