| 2007年1月 | |
| おかしな人間の夢(ドストエフスキー) |
彼らは互いに相手に見惚れることを一生の仕事にしているようだった。誰もが分けへだてなく、互いに恋慕し合っている──そんな感じがした。 |
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ドストエフスキー 太田正一 訳 論創社 1200円+税 |
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ここで紹介しようとするのは『おかしな人間の夢』なんですが、本題に入る前に、まず長々とカート・ヴォネガットの小説『ホーカス・ポーカス』(浅倉久志訳 早川文庫)から引用しようと思います。この小説のなかに『トラルファマドールの長老の議定書』という小説が出てきて、語り手がそれを読むというくだりがあるんですが、そこからの引用。 それは何兆光年もの長さを持つ、知的エネルギー線の物語だった。彼らは、寿命の限られた自己増殖力のある生物を、全宇宙にばらまきたがっていた。そこで、そのうちの何本か、つまり、題名にある長老たちが、トラルファマドールという惑星のそばで交錯して会議をひらいた。なぜ長老たちが生物を蔓延させることを名案と思ったのか、作者は説明していない。むりもないと思う。わたしだって、それを支持する強力な理由は思いつけない。わたしから見ると、あらゆる居住可能惑星に生物を居住させたがるのは、あらゆる人間に水虫をうつしたがるのとおなじである。 その会議で、長老たちの意見は一致した。宇宙空間の膨大な距離を生物が旅する上でのただ1つの実用的な方法は、極微で耐久力のある植物や動物が、彼らの惑星にはねかえった流星にヒッチハイクすることだ。 しかし、そんな旅をして生き残れるほど強靭な細菌は、まだどこにも進化していなかった。当時の細菌の生活はのんきなものだった。坊っちゃん育ちの集まりだった。化学的にいえば、彼らが伝染したどんな生き物も、チキン・スープのように安全だったのだ。 この会議がおこなわれた時期、すでに地球には人間がいたが、彼らは細菌がその中で泳ぎたわむれるほっかほかのスープにすぎなかった。しかし、人間は超特大の脳を持ち、中の何人かは話をすることができた。読み書きさえできるものがいた! そこで長老たちは人間に狙いを定め、彼らの脳が細菌のための恐怖の生存テストを発明できるかどうかを検討した。 長老たちは人間の中に、宇宙規模の化学的邪悪さの可能性を見いだした。そして、人間は長老たちを失望させなかった。 というのは、その細菌を強靭にするために、化学的邪悪さの極みといえるスープ──「恐怖の生存テスト」──で育てるということなんですね。スープが邪悪であればあるほど、そこで生きなくてはならない細菌も強靭になっていきます。 そうして、長老たちの策略によって、地球の人間たちはどんどん邪悪になっていきます。 そこで、地球の人間は、宇宙の創造者であるお方からじきじきに店をぶんどれという指図を受けたとかんちがいした。しかし、人間たちのもたもたしたやりかたを見て、長老たちはじれったくなり、彼らの頭の中に、自分たちこそ宇宙へばらまかれる予定の生物であるという考えを吹きこんだ。 ちなみに、長老たちは、会合点のすぐそばにあるトラルファマドール星のヒューマノイドたちを感化するのを、とっくにあきらめていた。トラルファマドール星人にはユーモアの感覚があったので、自分たちが頭のおかしいでかぶつとはいわないまでも、ずいぶん大きなハンデを背負ったでかぶつであることを知っていた。長老たちが何キロボルトかのプライドで彼らの脳みそを元気づけようとしても、それにはひっかからなかった。彼らが宇宙の栄光であり、くらべるもののない壮大な規模でほかの惑星に植民する運命をになっているという考えが頭に浮かぶと、みんなで大笑いした。 「品格」だの「愛国心」だの「美しい国」だのということばが頭に浮かぶと、みんなで大笑いする人びとというのを想像してほしいものです。 しかし、地球の人びとはユーモアがないために、その発想をすんなり受けいれてしまった。 長老たちから見ると、地球の人びとは、どれほどばかばかしい話でも、自分たちへのお世辞がはいっていればうのみにする傾向があるように思えた。その点をたしかめるため、長老たちはある実験をした。この全宇宙が、彼らそっくりなある大きな雄の動物によって創造されたというアイデアを、地球人の頭に吹きこんだのだ。 ここの人びとは、この作り話にコロリとだまされた! 長老たちが地球人に目をつけたもう1つの理由は、彼らが自分と異なった外見を持ち、異なったしゃべりかたをする地球人を恐れ、憎むことだった。彼らは、いわゆる下等動物≠フ生活だけでなく、おたがいの生活をも地獄に変えていた。 長老たちは、最大の王座にすわった創造主が、われわれ同様、よそものを嫌っているから、あらゆる手段を使ってよそものを絶滅すればそのお方のお気にいりになれる、とわれわれに思いこませた。 この考えは地球で大ヒットした。 それからほどなく、われわれは宇宙最強の猛毒を作りだし、地球の大気や水や表土を悪臭でみたしはじめた。この作家が匿名なのが残念だが、原文を引用すると── 「何億兆もの細菌が、このマスタードの辛さに閉口して、死んだり、増殖できなくなったりした」 しかし、地球のほとんどすべての生物が死に絶えても、少数の細菌だけは生き残り、むしろ隆盛をきわめた。そして、ほかのあらゆる生物が姿を消して、この惑星が月とおなじく不毛の地になったとき、その細菌たちは文字どおり破壊不能の胞子として冬眠状態にはいり、まぐれ当たりでつぎの流星が衝突してくるまでの期間を待ちつづけることになった。かくして、ついに宇宙旅行はまさしく実行可能になったのである。 いががだったでしょう? この『トラルファマドールの長老の議定書』を、私は思い出していたんですね、『おかしな人間の夢』──この非常に短い作品は、本の帯によれば、初めての単行本化なんだそうです。これまでは、この作品を読もうと思ったら、「ドストエフスキー全集」を用意しなくてはならなかったわけです。私は筑摩書房での「全集」を持っているんですが、ほとんどの巻をいまだに実家に置いたままで、この作品を読むの初めてなんです。いけません──のページをめくりながら。 さて、この作品の書き出しはこうです。 おれはおかしな人間だ。 奴らは今ではおれのことを<気狂い>だと言っている。奴らにとっておれが以前みたいに<おかしな人間>じゃなくなったというんなら、これはまあ官等(ランク)がひとつ上がったというものだ。でも、今はもう怒ってなんかいない。ただみんなが可愛い、懐かしくてたまらない。奴らがこっちを馬鹿にして笑っているときでさえ、なんだか特別に懐かしい気がして仕方がないのである。おれの方から連中と一緒になって笑ったっていい──なにも自分のことを笑おうというんじゃない、奴らを愛するあまりそうするのだ。 彼は以前の自分についてこういうことをいいます。 でも、一人前の青年になってからは、一年増しに、いよいよ深く自分の恐ろしい性質がわかってきたのだが、なぜか前より幾らか平気になった。まったく、なぜかとしか言いようがない。というのは、いまだにその理由をはっきりさせることができないからである。おそらくそれは、おれの魂の中で、トスカが、憂愁が、烈しさを増していったためだろう。この恐ろしいトスカは、おれの全存在を超えたある事情に関わっていた──ほかでもない、それは、この世のことはどこでもすべてどうでもいいという確信が、おれの心を捉えてしまったということ。おれはずっと以前から、そのことを予感していたが、完全なる確信としては、ここ一年のあいだに、何かこう突然やってきたのだ。おれは忽然として悟った──世界が存在しようがしまいが、あるいはこの世の一切が消えてしまおうが、おれにとっては同じこと、どうでもいいことなんだ、と。そう、おれは、自分には何ひとつなかったということを、おのれの全存在をもって直感したのである。 ここで、またべつの作品から引用しますが、 私の当代の思想の主要な一断面は、これを要約すれば次ぎのようであった。世界は真剣に生きるに値しない(本来一切は無意味であり空虚であり壊滅するべきであり、人は何を為してもよく何を為さなくてもよい)、──それは、若い傲岸な自我が追い詰められて立てた主観的な定立(テーゼ)である。人生と社会とにたいする虚無的な表象が、そこにあった。時代にゆすぶられ投げ出された(と考えた)白面の孤独な若者は、国家および社会の現実とその進行方向とを決して肯定せず、しかもその変革の可能をどこにも発見することができなかった(自己については無力を、単数および複数の他者については絶望を、発見せざるを得なかった)。おそらくそれは、虚無主義の有力な一基盤である。私は、そういう「主観的な定立」を抱いて、それに縋りついた。そして私の生活は、荒んだ。──すでにして世界・人生が無意味であり無価値であるからには、戦争戦火戦闘を恐れる理由は私になかった。そして戦場は、「滑稽で悲惨な」と私が呼んだ私の生に終止符を打つ役を果たすであろう。 (大西巨人『神聖喜劇』 光文社文庫)
──が思い出されます。 とにかく、 ……おれはふと空に目をやった。空は恐ろしく暗かったが、幾つかのちぎれ雲と、その雲間にある底無しの黒い斑紋をはっきりと見分けることができた。と不意に、そんな斑紋のひとつに小さな星を見つけたおれは、じっとそれに目を凝らした。なぜかと言うと、その星がおれにある想念を吹き込んだから。で、おれは、今日こそ自殺しようと決心した。このことはもうふた月も前から、しっかり腹を決めていたのだ。 ここである(大事な)出来事が起こるんですが、それはまあ、実際に読んでみてください。彼は結局この後で自殺をしませんでした。代わりに、自殺する夢を見るんです。その夢のなかで、自殺した彼がどういう経験をしたか、その夢から覚めて、彼がどうなったか、どうしたか、というのがこの作品です。 ──おお、その夢は、新しい、偉大な、更正された、力強い生命を、おれに告げ知らせてくれたのだ! 夢のなかで、自殺した彼はしばらくどうやら棺に入れられ、地中に埋められていたようなんですが、ある存在が彼をそこから運び出します。そうして、彼は宇宙空間をものすごい速度で移動していきます。 おれたちは真っ暗な未知の空間を疾走していた。見覚えのある星座の星々が見えなくなってから、もうだいぶ経っていた。この宇宙空間には、光が地球に到達するのに何千年、いや何万年もかかるような星があることを、おれは知っていた。もしかすると、そんな空間はもういくつも通過してしまったのかもしれない。心を悩ます恐ろしい憂愁の中で、おれは何かを待っていた。不意に、何か馴染のある、烈しく呼び招くような感情が全身を揺さぶった。次の瞬間、目に飛び込んできたのは、なんと太陽だった! おれは、それがおれたちの地球を生んだおれたちの太陽であるはずがないことも、自分たちが今あの太陽から無限にへだたっていることも承知していた。だが、なぜかおれは、それがおれたちの太陽とまったく同じもの、その反復であり双子の星であることを、おのれの全存在をもって知ったのである。 「でも、もしもあれが太陽だとすれば、おれたちの太陽とまったく同じものだとすれば──」思わずおれは叫んだ。「じゃあ、地球はいったいどこにあるんだ?」 すると、道づれが、闇の中にエメラルドの輝きを放っている小さな星を指し示した。ふたりは真っすぐそっちへ向って飛んでいたのだ。 「どうして宇宙にこんな反復があるんだ? 自然の法則? これが? ……もしあそこに地球があるなら、それはおれたちの地球と同じ地球なのか? ……あれとまったく同じ、不仕合せな、貧しいけれども永久に愛すべき、貴い地球なのか? それで、その地球は、忘恩の子の心にまで、おれたちの地球と同じ苦痛に満ちた愛を呼び覚ますのか?……」 「どうしてこんな反復が? いったい何のためだ? おれが愛しているのは、おれが見捨ててきた地球だけだ。恩知らずにも心臓に一発ぶち込んで、勝手にいのちの火を消してしまったが、でもあのときの自分の血しぶきは、あそこに残っている。そう、おれにはあの地球しか愛せないのだ。いや決して、一度だって、あの地球を愛することをやめたことはない。別れを告げたあの晩だって、おれはもしかすると、いつにも増していっそう悩ましく地球を愛していたかもしれないのだ。はたしてこの新しい地球にも苦悩というのはあるのだろうか? おれたちの地球では、もっぱら苦悩とともに、苦悩を通してのみ本当に愛することができる! それ以外の愛し方はできないし、それ以外に愛はない。……」 ともあれ、彼はその惑星に降り立ちます。 だが、道づれは、すでにおれを見捨てていた。そして、おれはおれで、自分でも気づかぬうちに、燦々と陽光の降りそそぐ、楽園のように美しい、そのもうひとつの地球に上に立っていたのだった。 そして、彼は、その惑星の住人たちの歓迎を受けます。 自分がこれまでいた地球で、おれは、人間のこんな美しさを一度も見たことがなかった。ただ、まだごく幼い子どもたちに、それと同じ美しさの遠いかすかな反映を見いだすことができるだけである。 人びとは満面に笑みを浮かべてやってきた。そして、おれを取り囲んでやさしく愛撫し、自分たちのところへ連れていってくれた。誰もがおれの気を落ち着かせようとしていた。おお、彼らはおれに何ひとつ尋ねようとはしなかった。 もうすべて承知しているといったふうで、ただ一刻も早くおれの顔から苦悶の黒雲を追い払ってやりたい──そんな様子がありありだった。 彼はこういいます。 ところで、もう一度お断りしておくが──なにしろこれは夢、単なる夢にすぎない! だが、これらの汚れを知らない美しい人たちの愛の感触は、ずっといつまでもおれの胸の奥に残っていて、それで今でもおれは、彼らの愛があちらから自分に注ぎかけられているような気がしているのだ。 そうして、 彼らは何も望まず、平穏そのものだった。おれたちは必死になって人生認識を追及するが、彼らはそんなことはしなかった。なぜなら、生活が満たされていたから。でも、彼らの知識はおれたちの科学よりも深くかつ深遠だった。おれたちの科学は、人生とは何ぞやという問いへの説明を求め、他の人たちにも生の意味を教えるために、自ら生を意識せんと努めるが、一方、彼らは科学などなくても、いかに生くべきかを知っていたのである! おお、この人たちは、強いておれの理解を得ようとは努めなかった。そんなことは端から無視して愛してくれたのである。かわりに、こちらも、決して理解されないことはわかっていたから、自分の地球のことはほとんど何も語らずに、ただ彼らの大地に唇を押しあてることで、彼ら自身を無言のうちに愛慕したのだった。彼らはそんなおれを為すがままにさせておき、おれが彼らを心から愛慕し敬うのを、べつだん恥じているようでもなかった。なぜなら、彼ら自身、大いなる愛の持ち主であったからである。こちらが涙ながらに彼らの足に接吻することもあったけれど、そんなときでも、彼らがおれのために心を苦しめることはなかった。それは、いずれ愛の力でおれに報いる時が来るのを、歓びを内に秘めつつ承知していたからだ。おれは自分でも驚いて、よくこんな疑問を発した──どうして彼らはおれのような人間をいつまでも侮辱せずにいられるのだろう? なんでまた一度もこんな人間に嫉妬や羨望の念を起こさせずに済んでいるのか? おれみたいなうぬぼれ屋の嘘つきが、愛するあまりとはいえ、彼らの理解をはるかに超える知識を披露して驚かすことを考えなかったのはなぜなのか? そんなことをおれはもう何度も自問したものだった。 彼らは互いに相手に見惚れることを一生の仕事にしているようだった。誰もが分けへだてなく、互いに恋慕し合っている──そんな感じがした。 こうして「もうひとつの地球」の人びとを語る彼は、やがて、彼ら「美しい人たち」がどういうことになったか──それも、どうして・なんのせいでそうなったか──を明かしていくんですね。これも、まあ読んでみてください。 さて、同じドストエフスキーの『地下室の手記』『罪と罰』『白痴』『悪霊』『カラマーゾフの兄弟』を──それぞれ何回か──読んでいた私は、この短い『おかしな人間の夢』を読みながら、描かれていることのほとんどに全然新鮮味を感じることはなかったんですね。それらの作品を読んでいるひとにはおなじみのものの別ヴァージョンというふうです。でも、この「美しい人たち」をこの「おかしな人間」が愛慕する、そのことはとてもよくわかり、心を動かされたんです。つまり、そういう「美しい人たち」の前でなら、彼は自分を全然恥じる必要がなかったんです。彼は、すべてを彼らに委ねてもいいんです。自分のどんなこともさらけ出してかまわないと思える誰か、自分のどんなことも赦して受け入れてくれる誰かの存在は途方もなく貴重です。 それにしても、そういう存在を求める心が、 「でも、来世には、蜘蛛とか、そんなものしかいないとしたら、どうですかね」 (ドストエフスキー『罪と罰』 江川卓訳 岩波文庫)
──ということばを導きもするわけです。「美しい人たち」を求めるその心がまず先にあります。それなしにいまの「蜘蛛」の出てくることはありえません。「蜘蛛」は「美しい人たち」の不在に対する反動です。 それで、思うんですが、そういう「美しい人たち」とか「蜘蛛」のことを、最初に引用した「トラルファマドール星人」が思い浮かべたら、いったいどんな反応をすることになるんでしょうか? またしても引用過多というか、引用の羅列でしかない文章になってしまいましたが、『トラルファマドールの長老の議定書』と『おかしな人間の夢』とを同じ視野のなかに据えるということを私はとても興味深く感じているわけです。 |