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2006年3月
五里霧(大西巨人)
超私的まんが道2≪一冊入魂≫
フットブルース(能田達規) .

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 ……こんな所業は、結局無意味なセンティメンタリズムでしかない、とあなたは思うかもしれない。あなたが思うだけでなく、それは、客観的にそうでしかないのかもしれない。しかし、自分としては、それが一つの小さな「精神の、魂の、連絡船」であ(り得)るかもしれないと考える。……
五里霧

大西巨人

講談社文芸文庫 1300円+税

 ほんとうは先月に同じ著者の『縮図 インコ道理教』を紹介しようと思っていたんですが、書きはじめてうまくいかず、トーマス・マンに変更したんです。今月はなんとかこの『五里霧』の紹介の、下書き程度(すみません)をお見せすることになりそうです。それも、この短編集のうち最後の「連絡船」のみの。

 「連絡船」は一九四一年十二月の話。昭和十六年十二月。八日に日本はハワイを攻撃したんでした。主人公桜井にも召集がかかり、いよいよ彼も出征しなくてはなりません。

 この作品は、まず和布刈神社についての記述から始まりますが、《菊岡沾凉著『諸国里人談』(一七四三年〔寛保三年〕刊)巻之一「神祇部」》の引用がほとんどを占めるこの一ページで、もう読めない、なんだこれは、というひともあるだろうとは思います。しかし、もちろんこれは読めます。読めないと思うのがいけません。もっとも、『神聖喜劇』を読まれた方には、こんな古文の引用などにたじろいだりすることのありようがないわけなんですが。

 桜井という男はいま九州の新聞社支社に勤めていますが、その就職は《「治安維持法」違反容疑による逮捕・大学退校処分・長期留置・証拠不十分の起訴猶予》などを経てのものでした。この時代にこういう経歴の持ち主であるということの厳しさを考えてみてください。彼は、

 ……和布刈神社(門司市大字門司字速戸)には幾回も行った。早鞆の瀬戸〔関門海峡東端〕に臨む和布刈神社境内と関門海峡の下関〜門司間を往復する連絡船(省線連絡船および民営渡海船との二つ)は、この坂道の多い港町における過去一年七、八ヶ月間、二十代前半の桜井に最も強い印象を与えてきた。遠洋近海各航路船舶の出入りしたり岸壁または沖合に碇泊したりする昼間の眺めも、町の高所から水道へむかって燈火のきらびやかになだれ落ちる夜景とともに、なかなか彼に印象的であったが。

で、

 ……「和布刈の神事」や例祭(五月十四日)やのおりには、人出が少なくなかったものの、平素は、夜間はむろん、昼間も参拝者その他がとぼしく、いったいに和布刈神社界隈は、ただ渦潮の無気味なひびきばかりが立ち渡り、索漠と──あるいは、いっそ荒涼と──していた。しかし和布刈神社界隈のそんな「索漠と──あるいは、いっそ荒涼と──した」たたずまいが、桜井の内面の近年いつも吹き透る落莫の風とまさしく見合っていたようであり、それゆえ彼は、そこへ相当頻繁におもむいたようである。

 ──なんですが、《たいてい一人でではなく二人連れで》だったんですね。これまで三人の女性とそこへ行っています。最初の二人は同じ会社のタイピストと電話の交換手でして、笑ってしまうんですが(この作品においての、この笑いへの語りは実は非常に大事なんです)、こういうことが書かれています。

 ……タイピストに、渾名は、なかった。肉体美の交換手には、「東洋一」という渾名が、付けられていて、それは彼女の道具が絶品であることを意味した。桜井は、「東洋一」から、「元来口有ルモ更ニモノイハズ/百億ノ毛頭ニ丸痕ヲ擁ス/一切ノ衆生、途ニ迷フノ所/十万ノ諸仏、身ヲ出スノ門」という狂詩を、ゆくりなくも思い出した。それにしても、桜井の実感においては、交換手の有名よりも、かえってタイピストの無名のほうが、内容の充実を呈していた。

 で、それは、

 ……言わば「行きずりの女」として、「一夜妻」に毛の生えたくらいのものとして、彼女らは、彼に考えられたのであった。そういう行き方が、また、彼の内面における数年来の「落莫の風」に、いかにも見合うらしかった。

 ところが、三人めの女性は特別で、

 だが、三番目の相手である笠縫華子とは、和布刈神社行きが昼間または夜間にたびたび行なわれ、いまに至るも、それが続いていた。華子は、桜井にとって、決して「行きずりの女」ではなかった(なくなっていた)。たとえば彼が、和布刈神社への物寂しげな午後の途上で、峡間の海のあちらこちらに一瞬白くひるがえっては失せる波がしらをいとおしみながら、小泉苳三作短歌「海峡を九州へ越ゆる船の上夕雨さむく降りて来にけり」、「海の上に夕の雨の寂しく降り石炭はこぶ船一つをり」を引いて語ると、彼よりも四つ年上の彼女は、少しも才はじけなどの様子はなく、その彼を受けて、村松英一作短歌「桟橋に横づけしたる船の上の人の面は赤し入る日に向ひて」、「蒼波の揺れただよふ水海月はかなきものか夕の光に」を挙げて答えるのであった。

 どうですか、こういうやりとりのできる男女を想像することができますか? こういう疑問は『神聖喜劇』を読んだときも持ちましたけれど。「うわ、すごい男女のいたものだなあ」というふうに。
 もっとも、考えてみると、短歌や俳句を読まないし、暗誦もできないですが、私にも自分が読んだ小説の、たくさんの文章のストックが頭のなかにはあるのかもしれません。そうして、ごくわずかなひとたちだけとは、そこからの引用にもとづいての話ができているのかもしれないと思います。でも、大西作品を読んでいると、それとはやはりちがうなあ、とはいつも感じますけれど。

 で、とにかく、その主人公桜井があるとき彼女にこういうことをいいます。

「人は、『精神の、魂の、連絡船』を(大小何艘か)持つべきであるが、とりわけ数年このかた、自分は、まるでそれを持たない(持つことができない)。」という(桜井自身もが、「われながら、取り留めないような」と断わらざるを得なかったところの)感想を述べたのも、そのおりであった。……どこからどこへの、何から何への、連絡船なのか、それは、彼自身にも、ほとんど五里霧中のような事柄である。ただ、もしも彼がその「精神の、魂の、連絡船」を(何艘か確実に)所有し得たならば、彼の内面における「落莫の風」は、たぶん吹き止むのではないか(少なくとも風勢がずいぶん落ちるであろう)、という漠然たる予感のようなものが、彼自身になくはない。……

 さて、だいたいそういうことで、一九四一年十二月のことが語られることになるんですが、桜井が華子に自分の出征のことを告げ、それとともに依頼することがあるんですが、ここでも「こごえ来し手足うれしく逢ふ夜かな」なんていう句が引かれることにもなり、作者の先のユーモアがずっと保たれているのがわかります。

 桜井の華子への依頼というのは、ある少女が学校へ行きつづけられるように資金援助をする(その資金は桜井が負担──出征中にも会社から給料が出るんです──します。『足ながおじさん』のように。で、その手続きを華子に頼むんです)のに手を貸してほしいということでした。

 その少女というのは、桜井の会社に勤めていた給仕(家の都合で学業を断念しなくてはなりません)ですが、

 ……少女給仕は、廊下側の窓ぎわで、机に向かい、文庫本を読んでいた。他に一冊の文庫本が、机上にあった。そこが、工務局工務部室における給仕の居場所であった。

「はい。」とうなずいて答えた少女は、机上から二冊の文庫本を手に取り、やや恥らうような風情で桜井に差し出した。桜井は、二冊を受け取り、おのおのの書名などを見た。一冊は、「岩波文庫」の前田晁訳『キイランド短篇集』。一冊は、「改造文庫」の北原白秋自選歌集『花樫』。どちらも、かつて桜井の愛読した文庫本であった。

(『キイランド短篇集』のキイランドというのは、トーマス・マンが『ブッデンブローク家の人々』を書きはじめたときに、まず「キーランド風の短編」をイメージしていたという、その作家ですね。何年か前に岩波文庫で復刊され、たぶんいまはまた品切れになっているでしょう。私は買ってはあるんですが、まだ読んでいません。)

桜井の依頼を華子は引き受けます。桜井はこういうんです。

 ……こんな所業は、結局無意味なセンティメンタリズムでしかない、とあなたは思うかもしれない。あなたが思うだけでなく、それは、客観的にそうでしかないのかもしれない。しかし、自分としては、それが一つの小さな「精神の、魂の、連絡船」であ(り得)るかもしれないと考える。……


 おそらくこの桜井のことばは、「連絡船」というこの小説そのものに当てはまるのかもしれません。描きようによっては、たしかに「結局無意味なセンティメンタリズムでしかない」作品にしかならなかったはず、と思います。しかし、これがそうならずにきちんとした作品として成立している──この短編自体が「連絡船」たりえている──のは、たとえば《菊岡沾凉著『諸国里人談』(一七四三年〔寛保三年〕刊)巻之一「神祇部」》の引用とか、《「元来口有ルモ更ニモノイハズ/百億ノ毛頭ニ丸痕ヲ擁ス/一切ノ衆生、途ニ迷フノ所/十万ノ諸仏、身ヲ出スノ門」》とか、《「こごえ来し手足うれしく逢ふ夜かな」》などのおかげでもあるはずです。ですから、冒頭の古文引用にしても、「もう読めない、なんだこれは」ではなくて、この作品にとって必要不可欠なものなんです。この作品には全然無駄がありません。

「精神の、魂の、連絡船」ということ、《……どこからどこへの、何から何への、連絡船なのか、それは、彼自身にも、ほとんど五里霧中のような事柄である。ただ、もしも彼がその「精神の、魂の、連絡船」を(何艘か確実に)所有し得たならば、彼の内面における「落莫の風」は、たぶん吹き止むのではないか(少なくとも風勢がずいぶん落ちるであろう)、という漠然たる予感のようなものが、彼自身になくはない。……》ということが、私にはとても共感できます。それはまた、「落莫の風」への共感でもあるということですが。





≪一冊入魂≫

第51回 『フットブルース』




春スポーツシーズン到来!
 
 以前書いたことのあるようなフレーズですね(笑)

 近年の春スポーツといえば野球、サッカー、ゴルフ…などなどでしょうか?これらのスポーツはマンガのテーマとしても定番中の定番でして、いろいろな雑誌の中で数多くの作品のある中でも結構なウェイトを占めるテーマでしょう。

 今回紹介する作品は最近連載が始まりようやく1巻目が発売された『フットブルース』!この作品の作者である能田達規さんは以前にも『ORANGE』というサッカーマンガを描いていました。この作品では潰れかけたクラブチームが1部リーグへの昇格をかけた戦いを熱く描いたものでした。今回は今まで全くサッカーというものに触れていなかった双子があるきっかけでサッカーにハマりこんでいく作品です。

 アツくアツく、更にアツい作品です!是非是非御一読を!




フットブルース

能田達規

秋田書店 1巻まで 390円+税
 まずは簡単な作品紹介から。

『いくぞ!!勇(ユウ)』

『おおっ』

『よしいい動きだ!!次は海(カイ)!!』

『はいっ!!』

 場所は砂浜。父親と2人の子供が野球のノックをしている。ノックのボールがあらぬ方向に逸れる。追いかける海。するとあるものに躓いて転んでしまう。サッカーボールだ。拾いあげた勇。そしてこう呟きながら大きく蹴りだす。

『ちぇっ この島には野球しかないんだ。サッカーボールなんていらねえよ!!』
ここは伊豆諸島にある『Q島』。東京から300km、伊豆諸島の外れにあるこの島は人口3000人で漁業と観光と野球が盛んな島…

 ある日の昼休み。給食を食べ終わった子供たちはいつものように野球をするべくグラウンドに駆け出していく。出遅れる海。すると後ろの席から囁く声が聞こえてくる。

『なんでみんな野球ばかりなんだ…?』

 その毛の主は本土から転校してきて間もない鈴木という子。サッカー雑誌を読みながら海の野球への誘いを即座に断ってしまう。

 外では勇を中心に野球に興じている。すると海と鈴木がグラウンドにやってくる。海は鈴木がサッカーが上手いことを皆に教えるがサッカーを馬鹿にしている他の子たちに受け入れられず、同時に野球に馴染みのない鈴木も野球を卑下するような発言をしてしまいボールを置き去りにしたまま帰ってしまう。

 そのボールを返しにいく勇と海。鈴木の母親の(強引な)誘いもあって部屋に上がるふたり。そこはサッカー一色の部屋。鈴木お気に入りのサッカーのビデオを見せられ興味をそそられる海。その最中鈴木の父親が帰宅し、いままで友達のいなかった息子のことを憂いていたのでこのチャンスを逃すまいと、週末に本土でのプロリーグ『Fリーグ』の試合を一緒に観に行ってほしいと土下座する。

 そして週末、船で東京に渡りスタジアムのある船橋へ到着する。そこはプロチーム『船橋ブルース』のホームグラウンド、船橋ブルーススタジアム。埋め尽くされた観客席。そしてキックオフの時間となるのだった…

 この後強烈なプレイと、ある人物を目の当たりにしたふたりはある決意をします。それは何なのでしょうか?それは皆さんでご確認を!
超私的お気に入りエピソード

熱病

P.65〜104
 週末のプロの試合を目の当たりにしたふたり。その時に決意したことを実行すべく鈴木の元を訪れる。ただそれを実現させるためには周囲の環境が味方するものではなかったのだった… 

 今回はこれ以上書いてしまうと読まれた際に全く面白味がなくなってしまうのでとても短いですが今回はここまでで(決して手抜きではありません 笑)。この話の最後のページ1コマ目の鈴木くんの顔と最後の海の言葉がとても良いです!

 実はこの1巻目よりも2巻以降のほうが盛り上がり度大!です。おそらくもうすぐ2巻も発売されますのでまとめて読むも良し!1巻だけ読んで2巻以降に備えるも良し!です。

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