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2005年12月
タタール人の砂漠(ディーノ・ブッツァーティ)
超私的まんが道2≪一冊入魂≫
夏目友人帳(緑川ゆき) .

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明け方、新堡塁から、北の荒野に、一筋の小さく黒い線が見えた。その細い線は動いていた、目の錯覚ではなかった。初めにそれを目にしたのは歩哨のアンドローニコだった、それから歩哨のピエトリも、最初笑いとばしていたバッタ軍曹も、堡塁の指揮官マデルナ中尉も、それを見た。
一条の小さく黒い線が、無人の荒れ地を横切って、北の方角から進んで来ていた、前夜からすでになにか予感めいたものが砦に広まっていたとはいえ、それは理屈にあわぬ、不思議な出来事に思えた。

タタール人の砂漠

ディーノ・ブッツァーティ 脇功 訳

松籟社 1553円+税


この小説の前半で、空虚な海を前にして、ほとんど未知の帝国を睨みながら、無為に日々を送っている沿岸守備隊の姿は、しばしば、イタリア語で書かれたもう一つの美しい小説、ディノ・ブッツァーティの『タタール人の砂漠』と比較される。『タタール人の砂漠』は1940年に発表され、『シルトの岸辺』の直前にあたる1949年には仏訳も刊行されているところから、グラックに模倣者の非難を浴びせる批評家もあった。
(「『シルトの岸辺』訳者あとがき」安藤元雄)



「まるでコカ・コーラみたいに売れる作家というのは、それぞれに読みやすい文章を書くし、ストーリー展開も中々のものです。ですが、どうもいただけません。うますぎるんですよ。何の抵抗もなくするする読めて、ストーリーもそこそこ手が込んでいる、だけどそれだけなんですね。だから、読み終えた後に何も残らないんです。文体も軽くて、妙な浮力がついているような感じで、手ごたえがない。多くの若手作家のもっとも大きな欠点はそれでしょうね。売れ行きを重視する出版社は喜んでいますが、平均点はそう高くないと思いますよ。だったら、この作品をお読みになったほうがずっといいですよ。カフカを思わせる、透明で美しい作品です」
そういってすすめてくれたのが、イタリアの作家ディーノ・ブッツァーティの『タタール人の砂漠』のスペイン語訳だったので、またまたびっくりした。
(「『黄色い雨』解説」木村榮一)



……というわけで、ここしばらくの間に読んだ(ただ読んだだけでなく、感嘆もした)ふたつの小説のそれぞれのあとがきに、この『タタール人の砂漠』の名があがっていたんでした。『タタール人の砂漠』──この書名は知ってはいました。でも、まったく知らないというのではなかったというだけで、どこの国でいつごろ書かれたどんな作品か、作者は誰かも知りませんでした。で、この本を取り寄せた(昭和堂には置いていない本だったから)、と先々月に書いたんでした。

書き出しはこうです。

将校に任官したジョバンニ・ドローゴは、九月のある朝、最初の任地バスティアーニ砦に赴くべく、町を出立した。

それは、

何年来待ち焦がれた日、ほんとうの人生の始まる日だった。

そして、

そう、いまでは彼は将校なのだ、金も入るし、美しい女たちも振りむくことだろう。だが、結局は、人生のいちばんいい時期、青春のさかりは、おそらく終わってしまったのだ、と彼は気づいた。

これが最初の1ページとちょっとで語られます。いま、これを引用しながら(ということはその部分の読み返しでもあるわけですが)、私はぎょっとしています。そうだったのか、もうこんなことが語られていたんだったのかと思っています。この作品はドローゴが「人生のいちばんいい時期、青春のさかり」の終わってしまっていることの自覚からスタートしていたのか。冒頭のこんなことをすっかり忘れていました。しかし、それでは、この『タタール人の砂漠』は私が読み終えて感嘆したのより、実はもっとすごい作品だったことになります。びっくりしました。それというのも……いや、とにかく実際に読んでみてほしいと思います。読むときには、いまの「だが、結局は、人生のいちばんいい時期、青春のさかりは、おそらく終わってしまったのだ、と彼は気づいた。」をちゃんと心に留めながら進んでいくようにしてください。いやいや、初読ではどうだろう。


さて、ドローゴは馬に乗って任地に向かうんですが、

早くたどり着こうと、ドローゴは昼餉のために馬を止めもせず、切り立った崖に挟まれた、次第に険しさを増す道でもう疲れを見せはじめている馬をせきたてた。行き会う人も稀れだった。通りかかった馬車引きに、ジョバンニは砦までどのくらいかかるか尋ねてみた。
「砦ですって?」男は言った、「なんという砦です?」
「バスティアーニ砦だ」ドローゴは答えた。
「このへんには砦なんてねえですよ」馬車引きが言った、「聞いたこともありませんぜ」


で、

もう谷はすっかり菫色の夕闇に包まれていた。信じられないほど高くにある、草に覆われただけの裸の山頂のみが、夕日に照らされていた。すると、そのとき、だしぬけに、夕暮れの澄み切った空を背にして、古びて荒れ果てた、軍事用の構築物とおぼしいものの黒々とした、巨大な影が目の前に現れた。

しかし、それがバスティアーニ砦だったかというと、そうではありません。城壁のところにいた浮浪者がドローゴにこう言います。

「ここにはもう砦はありませんぜ」男は人のよさそうな声で言った、「すっかり閉まってまさあ、人っ子ひとりいなくなって、もう十年にもなりますかな」
「じゃあ、砦はどこだ」と問い返しながらも、ドローゴは急にその男が腹立たしく思えてきた。
「どの砦です? ひょっとしたら、あれですかな?」そう言いながら、男は片手を挙げて、なにかを指さした。
そのとき、ジョバンニ・ドローゴは、もう闇に覆われた近くの崖の切れ目のあいだ、混沌として幾重にも重なる山々のむこう、計り知れぬほど遠くに、まだ夕日を浴びた、まるで魔法から湧き出たような裸の山の姿を目にした。そして、その頂きには一種独特の黄味を帯びた規則正しい幾何学的な線が見えた、砦の輪郭だ。


え〜と、ですね、これで私は作品の冒頭7ページまでしか紹介していないんですね。いったい、これでどんなふうに後をつづければいいんでしょうか? とはいえ、さっき私が読み返しながらぎょっとしたと書いたように、実はこの作品はなにげない細部にまでとんでもない重量がかかっているようなんですよ。はじめに通読したときは、なんとなく通過していってしまったんですが。そうです、淡々とした語りにそのままついていって……という感じで読み終えたんです。で、いまぎょっとしている。──どうでしょう? そういう作品です。
でもとにかく、強引に先を紹介しますか。

ジョバンニ・ドローゴは作品の最後まで目ざす砦にたどり着けない──カフカの『城』のように──というのではなく、ちゃんと着任します。
でも、

「でも、主要な砦のひとつなんでしょう?」
「ちがうよ、第二級の砦だよ」オルティスは答えた。彼は砦の悪口を言って楽しんでいるみたいだった。だが、その口調には一種独特の調子があって、ちょうどいっぱいいいところをもっている息子の取るに足りない瑕を並べたてて喜んでいる父親みたいだった。
「無用の国境線上にあるんだ」オルティスは付け加えた。「だからいっこうに修築しようとしないんだ、一世紀前とあいかわらずおなじさ」
「なんですって、無用の国境線上ですって?」
「なんら気にする必要もない国境線だよ。前には大きな砂漠があるだけさ」
「砂漠ですか?」
「そう、砂漠さ、石ころと乾いた大地だけさ。タタール人の砂漠って呼んでるけどね」
ドローゴがたずねた、「タタール人とはまたどうして? タタール人がいたんですか?」
「大昔にはいたんだろうよ。でも、いわば伝説さ。砂漠のむこうに渡った者なんかいやしない、これまで幾度あったかもしれない戦さのときでさえそうだ」
「じゃあ、砦はこれまで一度も役に立ったことはないんですか?」
「なんの役にもな」大尉は言った。


そんなわけで、ドローゴはすぐに転属を願い出ます。しかし、着いてすぐ転属もなんだからと諭され、4か月は待つということになります。

その4か月の間にドローゴに変化が起きてしまいます。彼は──実は、彼以外のこの砦の兵士たちも全員そうなんですが──いつしか、北の砂漠からタタール人が攻めてくる、この無用のようだった砦は国を守るための最前線になる、という期待にとりつかれてしまうんです。そうして、転属願いを取り下げてしまいます。

長い年月が過ぎていきます。単調な毎日の集積です。ドローゴも年齢を重ねていきます。

そしてとうとうあるとき、砂漠に大勢の兵士が現れ、砦は期待にふくれあがります。

しんと静まりかえった集会所には将校たちの深い呼吸だけが聞こえていた。大佐は口を開かねばと思った。その瞬間、新たな感情が堰を切ったように押し寄せてきた。どういうわけか、われながら驚いたことに、フィリモーレはその侵入者たちがまさしく国境を侵犯しようとする敵なのだとたちまちにして確信したのだった。どうしてそう信じるに至ったのか、自分でも分からなかった、ついさっきまではそう信じたい誘惑に打ち勝っていたのに。みんなの張りつめた気持ちに引きずられ、滔々としゃべり出しそうな自分を感じた。「将校諸君」こう言いそうになった、「長年待ち望んでいた時がついに来た」なにかこんなふうなことを言い出しそうだった。そして将校たちは、彼の言葉を、栄光を約束してくれる権威のあるものとして、有難がって聞くであろう。
こうした趣旨のことを今や彼は話そうとしていた、だが、心の片隅には、まだそれに反対する声があった。《そんなことはありえない》と、その声は言っていた、《まだ間に合ううちに気をつけろよ、なにかの間違いだぞ(そうでないと話がうますぎる)、気をつけろ、裏になにかとんでもない間違いがあるかもしれないぞ》
押し寄せてくる感動の中で、時々そう反対する声が囁いた。だが、もう遅かった、ためらっているのが気詰まりになりはじめた。
そこで、大佐は一歩進み出て、話しはじめる時の癖で、頭を反らした。将校たちは大佐の顔がたちまち紅潮するのを見た、そう、大佐は少年のように顔を赤くしていた、彼はおのれの人生のいとおしい秘密を告白しようとしていたからだった。


しかし──もうこのへんでやめておきましょう。くわしいことは、実際に読んでみてください。

たしかに前半は『シルトの岸辺』とかなり似ていると思いました。「カフカを思わせる」というのも、そうかもしれないなと思いました。また、あるところでは、トーマス・マンの『魔の山』(の「攻撃失敗」の章)を思い出しもしました。そして、なにより私はだいぶ以前にこの「それ、読みたい!」で紹介した長田弘の詩を思わずにはいられませんでした。
……と話をそらし、ぼやかして、これでお終いにしようと思いますが、その、とにかく『タタール人の砂漠』、とてもいいです。読む価値(繰り返して読む価値)は十分にあります。






≪一冊入魂≫

第48回 『夏目友人帳』




こんな友達は如何…?
 
 この『まんが道』で新刊が出るたび毎度のように採り挙げている作家さんが何人かいます。その作家さんのうちのひとりの名前は『緑川ゆき』さん!この方を初めて知ったのは『あかく咲く声』という作品でした。

 当時コミックスの担当をしていた私は表紙をひと目見るなり絵柄やタイトルなどといった具体的なものではなく『何となく』といった非常〜〜〜に抽象的な魅力にとり憑かれ即購入。そして帰宅途中にガ〜〜〜ッと一気に読み耽り、その日の夜に手描きPOPを描いて即行で翌日添付していたのをいまだに記憶しています。

 では一体何がそんなに魅力だったのか…?それは正直なところいまだに良くは判りません。ですが発行される新作を読むたびに不思議と胸躍ってしまうのです。

 今回は10月に出ました最新作を紹介したいと思います。この話は先生御本人が初期目標としていた単行本10冊まであと1冊に迫る9冊目。あと1冊とかいわず、ず〜〜〜〜っとこのまま素敵な作品を描き続けていてほしい限りであります…



夏目友人帳

緑川ゆき

白泉社 1巻まで 390円+税
 まずは簡単な作品紹介から。

『あの女はどこだ?あの女は どこへ行った?』

 森の中を走り続けるひとりの少年。森の外に出ると同じ学校の生徒に出くわす。走り出てきた少年は『夏目貴志』。最近転校してきた少年で、親戚をたらい回しにされているらしい。彼は近くに神社がないかと尋ねる。そして神社の場所を教えてもらいその方向に走り出す。すると後を追うかのように一迅の風が彼らの間を吹き抜けていったのだった。

 夏目は幼い頃から時々変なものを見てきた。それはおそらく妖怪といわれているもので、もともとあまりいい気はしていなかったのだが最近やたらと絡んでくるものが多くなっていた。今回もそのようなものたち。とうとう逃げ切れずに捕まえられた夏目。するとそれらはこう呟くのだった。

『ああ捕まえた 捕まえた 捕まえたぞレイコ…やっと かえせ かえせ』

 隙をつきさらに逃げ出す夏目。するとそのとき躓くようにして足で何かを切った感触があった。するとそのとき後ろから声が聞こえてきた…

『おお 結界が破れた…よくやってくれたぞ小僧  ああ 外へ出られる』

 振り返るとそこには小さな祠。そしてドンッという音とともに一体の招き猫が飛び出してきた。それは招き猫を依代にした妖怪だった。そしてこう呟く。

『お前 夏目レイコじゃないか……』

 夏目レイコとは貴志の祖母だった。とても美しい人であやかしのものを目に映すことができた人だったが故に周囲の人から理解されずいつもひとりでいたのだった。そして妖怪相手に憂さ晴らしをしていたということらしい。さらに猫はlこう続ける。

『ユウジンチョウを知っているかい?』


 夏目はこのあと自宅をあさり『友人帳』と書かれた1冊の帳面を発見するのです。その中身は落書きのようなものが書かれていました。ですがなぜか彼にはそれらがスラスラと読めてしまうのです。実はそこに書かれていたのはかつて祖母のレイコがいじめた妖怪たちの名前が書いてあったのです。人とうまく付き合うことができなかったレイコは憂さ晴らしに妖怪たちに勝負を挑んでいきました。しかも彼女は強力な妖力を持っていて片っ端から打ち負かしては子分になるという約束を守らせるために名前を書かせ、それをまとめあげたのが『友人帳』だったのです。妖怪たちはそこに書かれた自分の名前を返してほしいがために彼の元へとやってきていたのでした。

 そしてそのような説明を猫から聞いている途中に玄関から声が聞こえてきます。その声の持主とは?そして夏目がしようと誓ったこととは?それは皆さんでご確認を!
超私的お気に入りエピソード

第2話

P.55〜104
 とある冬の日、下校中の夏目とそのクラスメイト。顔色が悪くなっている夏目を心配する友達の後ろにはいつものように妖怪が見えているのだった。友と別れるとさらに近寄ってきた妖怪が友人帳を求めて襲いかかる。何とか逃げ出すことができた夏目だが家に帰っても次から次へと妖怪がやってくる。そしてようやくひと息つき食事をしようとすると湯飲み茶碗の陰から一体の小さな妖怪が姿を現すのだった…

 その妖怪はニャンコ先生(招き猫の妖怪のことです 笑)の知り合いでツユカミという土地神のように扱われているものでした。そのものもやはり名前を返してほしく夏目の下にやってきたのですが彼の名前が書かれた紙はご飯粒で次のページと張り付いてしまっていて剥がそうとすると実際の妖怪たちの体も同じような目にあってしまうので、剥がすことはできず、結局もう1枚の紙に書かれている妖怪を探すことになりました。

 翌日の放課後ツユカミの住んでいた森へと足を運んでいる途中にミカンをこぼしてしまった老女と出会う。彼女はハナという名前で常にツユカミの住む森の祠にお供えをしにやってきていたのだったがもう余命幾許もない状態であったのだ。

 後日もう1枚の紙に書かれた体に『参』と書かれた妖怪を探すべく歩き回る夏目と先生。するとツユカミの祠にはハナの姿が。拝んでいるその目の前にはツユカミが座っている。

『どうして見えないんだろう』

 ふともらす夏目だった。

 夏目と共に帰る途中ハナは以前一度だけツユカミの姿を見たと告げる。そのときツユカミは『今日は暖かいなぁ』と呟くが、ビックリして消えてしまうかと思い思わず『そうですね』と答えそうになってしまうのをこらえたこと、そして思い切って『そうですね』と答えていればとも思っていたことを彼に話すのだった…


 この後の展開は皆さんの目でご確認を。緑川先生の描く作品に共通していえることがまさにこの後の展開の中にぎゅっと詰まっていると私は思います。それが何なのか?気になる方は是非御一読を!そして一緒にハマリ&応援しようではありませんか!

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