home

2005年10月
黄色い雨(フリオ・リャマサーレス)
超私的まんが道2≪一冊入魂≫
ブリザードアクセル(鈴木央) .

.

しかし、ここには私しかいない。私はたったひとりで死と向き合っている。
黄色い雨

フリオ・リャマサーレス 木村榮一 訳

ソニーマガジンズ 1700円+税

このあと『タタール人の砂漠』(ディーノ・ブッツァーティ)を読むつもりで、すでに取り寄せはした(ということは昭和堂にはなかった・ないということなんですね)んですが、なぜこれを読みたくなったかというと、ちょっと前に紹介した『シルトの岸辺』(ジュリアン・グラック)の解説に、両作品の類似云々が書かれていたからですが、だめ押しになったのが、この『黄色い雨』のあとがきにもその名があがっていた(といっても、直接の関係の指摘というのでは全然なく)ということです。『タタール人の砂漠』は松籟社から出ています。松籟社──私は何年も前にここの『ムージル著作集』を全巻定期購読していましたっけ(しかし私、『特性のない男』は中途で挫折したままです)。読もうと思っている本は増えるばかり(とっくに購入はしているんで、現実に自分の部屋に増えるばかり)です。『舞踏会へ向かう三人の農夫』(リチャード・パワーズ)とか『贖罪』(イアン・マキューアン)とか、『カウガール・ブルース』を読んだせいでまた読み返したくなった『オクトーバー・ライト』(ジョン・ガードナー)とか『リトルジョンの静かな一日』(ハワード・オーウェン)とか……はたまた『カンバセイション・ピース』(保坂和志)とか『楡家の人びと』(北杜夫)とか、今年に読み終えたばかりですが『神聖喜劇』(大西巨人)とか、ああそうだ、復刊された『青年の環』(野間宏)も買ったんでした。そして、自分でも驚きなんですが、大昔に読んだ『ジャン・クリストフ』(ロマン・ロラン)も再読(前は新潮文庫の新庄嘉章の訳──そして現在絶版──で読んだので、今度は岩波の豊島与志訳で)したい。
なぜ店頭では手にとって読もうと思って買った本をそのあとすぐに読みきることができないのか? そういう疑問を持つひともあるかもしれませんね。つまり、そういうひとは買った本をそのつど読み通してしまっているということになるでしょう。で、買った本をすぐに読まないのならば、その買物は無駄じゃないか、というふうにもなるでしょう。
そこで、まず私のこたえるのは、本というものはあるうちに買っておかないと、店頭から消えてしまう、単に消えるだけでなく、そのうち絶版になっていて、入手できなくなるからだということです。でも、これはいまここで私のいいたいことではないんです。
私のいいたいことというのは、ええと、保坂和志さんのことばを借りると、「チューニング」なんですね。ある作品に読者が入っていくためには、読者はその作品に自分を「チューニング」していかないとならないんです。その作品の声がいちばんはっきり聞こえるところまで、ダイヤルを動かして、微調整までしていかなくちゃならない。いつも自分が聞いている局の周波数を変更して、その作品の局まで目盛りを動かしていかなくちゃならないんです。その作品にノッていくために自分の意識を変えていく必要がある。これには読者の体調とか、気分とかも大いに関係しています。(で、また説教調になりますが、そういう「チューニング」をまったく、あるいはほとんどしなくてすむ、いつもの周波数のまんまですんなり入っていけるような作品もたくさんあるんです。そういうのは、つまらない・くだらない・単にひまつぶしのためにしかならない作品です。いや、本当は作品にすらなっていないのだろうと思います。)さて、このように「チューニング」を必要とするような本を、どうやら私はたくさん買い込んでいるんだと思うんです。読者に「チューニング」を要求する作品は「文体」をしっかりもっているということでもあると思います。また、いろんな「チューニング」を経験としてたくさん蓄積していけばいくほど、読者は腕を上げていくようにもなるでしょう。そうやっているうちに読書ということの質が変化していくはずだと思います。そうなるまでに、たしかに量は必要になるでしょうが、いったんこの質の変化が起こりはじめたなら、そのあと量なんかは大した意味をもたなくなりますね。で、それまでの量も、だから必ず「チューニング」に苦しまなくてはならないような作品での量だけが問題になるでしょう。これまでにも何度か私のいっている「背伸びをする読書」というのはそういうことです。ま、とにかく、ずっと読書をつづけてきて、40歳を過ぎても「チューニング」には苦労するわけです。贅沢な話で、「チューニング」しなくていいような本なんか全然読みたくもないんです。もっとも、私はやっぱり怠惰なんで、それも大きな要素だと思いますけれど。





……じゃなくて『黄色い雨』ですね、今回採りあげるのは。



ええと、まずこれを9月15日に読了。で、19日に再読了。という読書をしたわけなんですが、すごい作品です。強くおすすめします。でも、ですね、この出版社の営業にそういいましたら、そんなことをいうひとに初めて会いましたという返事で、たぶんあんまり売れていないんでしょうし、これを読んだ書店員もそうそういないんでしょうし、そのなかでよいと感じたひとの数ももっと少なくなるんでしょうし、もしかしたらゼロかもしれないなんて想像します。私はどんどん悲観的に傾斜していきます。


彼らがソブレプエルトの峠に着く頃には、たぶん日が暮れはじめているだろう。黒い影が波のように押し寄せて山々を覆って行くと、血のように赤く濁って崩れかけた太陽がハリエニシダや廃屋と瓦礫の山に力なくしがみつくだろう。以前そこにはソブレプエルトの家が一軒ぽつんと建っていたが、家族のものと家畜が眠っている間に火災に見舞われて、今は瓦礫と化している。一行の先頭に立っている男がそばで足を止めるだろう。そして廃墟とひどく暗くて寂しいその場所を眺めるだろう。

──というのが書き出しです。この一行は武装しています。そして「不安げな足取りで歩くその目にはおびえたような表情が浮かんでいるだろう」

彼らはそのさらに前方の村=アイニェーリェ村に向かうところです。

峠から見ると、アイニェーリェ村は崖にしがみつくようにして建っており、湿気と目のくらむような川のせいで崩れ落ちた敷石とスレートが雪崩をうって落ちそうになっている。

物音ひとつせず、立ちのぼる煙も見えず、通りには人影どころか生き物の姿ひとつ見当たらない。無数に並んでいる窓のどこを見てもカーテンは揺れていないし、その前でシーツがはためいてもいない。遠くから見ると、人の住んでいる気配が感じられないだろう。けれども、ソブレプエルトの畑から村を見つめている男たちは、静寂と沈黙、それに闇に包まれているこの村に私が身をひそめて様子をうかがい、じっと待ち受けていることを知っているだろう。

こうやって読むと、どうやらこのあとには「私」と「男たち」との間になにか激しい戦いのようなものが繰り広げられるにちがいないと思われるでしょう。双方の荒い呼吸音の聞こえるような作品が予想されます。そうして戦いの描写のさなかにこれまでの経緯が挿み込まれ、最後にどちらかが勝利(敗北)して語りは決着するんでしょう。とまあ、そんなふうに読者は想像をめぐらすでしょう。

はずれです。全然ちがいます。これはそういう作品ではありません。なんだ、とがっかりすることになるでしょうか? なりません。なぜなら、このあとに語られるのは、もっとすごいことだからです。

しかし、このすごさをいったいどういうふうにここで説明したらいいのか、わかりません。そもそも説明しようというのがまちがいかもしれません。かもしれないではなくて、まちがいです。というわけで、私はべつの書きかたをした方がいいんでしょう。

私がこの本を手に取ったのは帯(黄色く透けている)に柴田元幸のことばが載っていたからでした。だいぶ以前のこのコーナーで彼の採りあげる作品にはずれのないことを書きましたが、いまだにその信頼は持続しています。そして、彼が自身のいつも手がける英米のではなく、ラテン・アメリカの作家をわざわざ推すことの意外さもを私の好奇心をかきたてました。ちょうど私は彼の訳した、そしてさきほどちらりとタイトルを出した『舞踏会へ向かう三人の農夫』(だいぶ以前に読みかけて挫折していました)に再トライをしてもいました。また、『夜のみだらな鳥』(ドノソ)というラテン・アメリカの小説を読みだしてもいたんでした。こうしたささいな符号も手伝って、しかも帯のことばはこうなんでした。「この小説を読むことで、あなたの世界は全てが変わってしまうだろう。」もし帯のことばが柴田元幸でなかったら、私はこの作品を読んだかどうか。

なぜこの読書を最後まで続けられたかというと、まずは上の引用でもわかるように「……だろう」「……だろう」という文章の連続の奇妙さに始まって、これまた上に書いたように、まず「私」と「男たち」とのことでの私の予測が裏切られたこと──むしろ、どうやらちがうんじゃないかな、と気がついていく過程そのもので勢いもつきました。いろいろな他の事情もつかめてきて、そのあたりがおもしろかったんですね。
(こうした自分の予測とかその予測の結果とかが読書の推進力になると思っていますが、ずっと私の考えていることは、いつからか私は作品の「つくり」に目が行くようになってしまっているんですね。たとえていうと、ある建築物のなかに入ったとき、私は誰の目にも入る表層の具合を見るんじゃなくって、見えないところでの構造(その構造ゆえに表層が現に見えるようにあるわけです)に関心が向いてしまうようなんです。これがずっとしつこくいいつづけている「文体」というわけですが。)
なんとか最初の通読を終えたとき、この作品は、ある意味では「わけがわからなかった」んですが、その「わけのわからなさ」が自分の非力によるものだということはわかりました。というか、「わけのわからなさ」はこの作品に対する私の敬意です。ある作品について私が「わけがわからない」というとき、それはその作品がすごくよい場合か全然だめな場合か、どちらかです。で、このどちらかという判断はもうはっきりつきます。これは経験上そうなんです(ということは、ろくに経験を積んでもいないひとにはこういう判断のことを話しても通じません。それでどうなるかというと、またしても「好きか嫌いか」とか「ひとの好みはそれぞれ」とかいう話にしかなりません。「いい・わるい」だけが問題だというのに)。だから、『黄色い雨』の場合、この作品はあまりにもすごくよいために私には「わからなかった」んです。そういう手応えでした。なにが私にとって「わけがわからなかったか」ということのいくつかは見当がついていました。で、もう一度読み返して、そこを確認しようと思ったわけです。


今、私の目の前に広がっているのは、死に彩られた荒涼広漠とした風景と血も樹液も枯れてしまった人間と木々が立っている果てしない秋、忘却の黄色い雨だけだ。


秋の終わりの寒い夜で、今と同じように黄色い雨が窓を覆っていた。


あれは九月の終わり頃で、道に面したガラス窓の向こうの大気は黄色く色づいていた。


今、死がこの部屋のドアのまわりをうろつき、大気が私の目を少しずつ黄色に染めている。


フリオ家の人たちが村を離れるために最後の片づけをし、黄色い雨が静かに川面に降り注いでいたあの夜、私は粉挽き小屋に隠れたが、その時突然自分の心もあの雨にとっぷり浸されていることに思い当たった。


読んだひとにはわかりますが、この作品はどこからが……で、どこからが……なのか=いつからが……で、いつから……になのかということが非常に重要なことなんです。で、私がそれを再読によってはっきり確認できたかというと、そうじゃないんですね。それでなおさらこの作品をすごいと思いました。もうちょっと親切にいいなおそうとすれば、どこからが本当の黄色なのかということなんですが、これは読まないひとに説明しようと思っても無駄です。この黄色一色への移行がこの作品を支えています。その移行の表現の妙といえばいいんでしょうか、それがあまりにもすばらしい。非力な読者としての私がなおいえば、この移行がはっきりこうだと断定することがたやすく読みとれるならば、この作品は逆につまらないものになっていたでしょう。いま、数年前にヒットしたあるアメリカ映画(子役の少年が絶賛されましたっけ)の名前が喉から出かかっていますが、あの映画ほど事情が明確になってしまえば、きっとこの作品はつまらなくなってしまっていたでしょう。あの映画ほど簡単に割り切れないものを描いているからこそ、この小説はものすごいんです。しかし、そもそも両者は全然べつのレヴェルの作品です。映画云々はちょっと思い出したからいってみたまでです。
……いやいや、私は「この作品はどこからが……で、どこからが……なのか=いつからが……で、いつから……になのかということが非常に重要」といいましたが、重要は重要でも、しかし、それが作者の描きたかったことの全体ではないでしょう。また「この黄色一色への移行がこの作品を支えています」というのもそうですね、やっぱり大げさだ。そんな謎解きみたいなことはこの作品の一側面にしかすぎません。ただ、「どこからが……で、どこからが……なのか=いつからが……で、いつから……になのか」=「この黄色一色への移行」ということを鍵のようにしながら読者が読み進むことが全体を読むための助けにはなるだろうということですね。やれやれ、やっぱり私はつまらないことばかりを並べたてています。

べつのいいかたをしますが、この作品は素材のすべてについて「これはこういう意味、あれはああいう意味」というようにわかるようにはしていません。曖昧きわまりなくて申し訳のないことをいうんですが、このことをいおうとして私の思い浮かべているのが、これまたしばらく前に紹介した『おわりの雪』(ユベール・マンガレリ)で、あれは書かれていないことの非常に多いからこそ優れた作品なんでした。あそこには、大きいことでいえば、書かれていることの善悪の判断がまるっきり断定されていないことが作品全体のすばらしさにつながっていたんでした。書かれていないことに読者が想像をめぐらすことの大事な作品でした。

しつこいようですが、繰り返します。作品にとって大事なのは「何を描くか」ではありません。「どう描くか」なんです。






≪一冊入魂≫

第46回 『ブリザードアクセル』




シーズン到来!
 
 そろそろ朝晩を中心として寒さが増してきましたね。寒さが増してくると私個人として『また新しいシーズンがやってきたな〜』って感じでいっぱいになります。そのシーズンとは『冬スポーツ』。

 いわゆるスキー・スノボーといった『ウィンタースポーツ』ではなく冬期間中に行われる競技のことです。その中でも一番好きな競技は以前にも書いたかもしれませんがアメリカン・フットボールとアイスホッケー。昔はサッカーも国内ではこのシーズン中心でしたが今はオールシーズンでやってますしね。他にもラクビー、スキージャンプやらノルディック競技、NBAなどなど…挙げていけば本当にキリがありません。

 そんな冬スポーツの中でもこの2・3年間特にTVなどで話題の中心となっている競技があります。それが今回紹介する作品の主題にもなっている『フィギュアスケート』。何故話題になっているかは触れるまでもないので割愛しますが、以前は欧米選手が上位を占めていたこの競技も現在は日本人選手が上位ランカーとなり、TVなどの中継も増え、冬スポーツ好きな私も日々眠い目を擦りながらスポーツ中継観戦で悲鳴をあげております(笑)

 今回紹介する作品ではその競技の持っている華やかさというものよりもトレーニングの厳しさなど裏の姿を描いた良作です。ただ今回紹介するのは敢えて『2巻』です。何故かといいますとこの作品の本質は2巻から発揮されているからです。詳細は本文で…



ブリザードアクセル

鈴木央

小学館 2巻まで 各390円+税
 まずは簡単な作品紹介から。

 優秀すぎる3人の兄を持つ主人公・北里吹雪。優秀なもの以外認めようとしない両親からも存在さえ否定されて幼少時代を過ごしてきた吹雪。親の関心を引くために目立とうとして髪を銀髪に染めたりするが一向に振り向くことはなかった。

 そんな彼は自分の存在する場所を見失い、ケンカに明け暮れる日々を過ごしていた。ある日吹雪はふとしたきっかけでフィギュアスケートと出会うことになる。その時に着地は不完全であるものの飛ぶことができた4回転半ジャンプで彼は観衆の注目を生まれて初めて集めることになる。そして吹雪いわく『フギャー』を習いはじめようとするのだが年間150万円の費用がかかることを知るのだった。当然親はそんな金を用立ててくれることはない…

 また、吹雪の幼馴染である阿波花音も、自分の端麗な容姿のために幼い頃から習い続けてきたバレエでは自分が本当に表現したい力強さの象徴である演目『ボレロ』を表現できないことに悩み続けていた。だが吹雪のひと言でバレエからフィギュアへの転向を決意する。と、そのときふたりは東京にある白帝フィギュアスケートクラブの特待生になれば費用を無料でフィギュアを習えることを知るのだった。そして吹雪と花音のふたりは特待生試験に挑むのだった…

 と、ここまでが第1巻までのあらすじです。この後紹介する2巻で吹雪と花音のふたりはもうひとりの幼馴染・宍戸雷蔵と3人で試験会場に向かいます。そして吹雪、花音、もうひとりの受験者で唯一のフィギュア経験者である五反田との3人による試験が始まります。

 合格者は1人のみ。まずは五反田がソツなく演技を終了します。続いて吹雪の番。彼はジャンプはしたことがあるものの曲にのせて滑るのは初めてのこと。しかも曲は自分で用意しておらず、五反田が使用した『ラデツキー行進曲』を使うことになります。バレエ経験はあるもののフィギュア経験のない花音も同様です。そこで彼らふたりは一体どのような演技を行ったのか?それは皆さんでご確認を。ちなみに次のお気に入りでバレてしまうので結果だけは教えます。合格したのは五反田でした…
超私的お気に入りエピソード

自分で道を切り開く!

P.143〜162
 試験に不合格だった吹雪と花音。試験から5日経っても吹雪の心の中では『フギャー』への想いは募るばかり。そんな彼の下へフィギュアのきっかけを作ってくれた氷山FSCのコーチ・黒塚が姿をあらわし改めて自分のクラブへの勧誘をする。だがやはり150万円の問題が解決できそうにない。そしてその年会費が払えない理由を黒塚に話し出す吹雪。状況を把握した黒塚は一緒に親の下に赴き説得してやるといいふたりは吹雪の家へと赴くのだった…

 吹雪の父親はその申し入れを拒み吹雪のことをけなしはじめる。その答えを聞いた黒塚は吹雪の素質がオリンピック級であることを断言する。それを聞いた父親ははじめて満面の笑顔を浮かべて費用を出すという。そしてこう続けるのだった。

『ようやくお前も、北里の名にふさわしい男になったわけだ!これでわしも恥ずかしい思いをしなくてすむ!!』

 それを聞いたとたんに顔を曇らせ始める吹雪。そしてこう呟くのだった。

『いらねえよ。いらねえよ、そんな150万…誰がお前らなんかに頼るもんか……!!オレは自分の夢は自分で掴む!!』


 それを聞いた父親は激怒します。ですが吹雪は一向に引く気配はありません。そして自分が幼い頃から両親の目を惹くために無我夢中だったこと、そしてそのために銀髪にしたりケンカしてきたことを初めて親にいいます。ただこのとき初めて両親の望んでいた『モノ』に気付きこういうのでした…

『今ようやっとわかったよ。アンタは兄貴たちがかわいかったんじゃねえ。兄貴たちのたてる、手柄が好きだっただけなんだ!!オレはそんなみみっちい物の見方しかできねえ人間なんかのために……………北里家の手柄なんかのために生きるような小せえ男にはなりたくねぇ…オレは―――オレは誰もが注目せずにはいらんねえような、そんな男になりてえんだ!!手柄や名誉なんかにいちいち振り回されねえ、誰とも違ってて、そんで自分らしくって、誰よりもすげぇ何かをもってる――でけぇ男にな!!俺・・・今日限りでこの家出て行くわ。今まであんがとよ。』

 
ひとりでなど通用するわけがないと揶揄する父親に吹雪はさらにこう告げます。

『たしかに世間知らずかもな‥…でも、だったら…世間がオレを知るようにすりゃいい。オレは自分で道を切り開く!ダメだったら野垂れ死にかもしんねぇけど…オレはそれでもかまわない。じゃあな。』


 啖呵をきって出て行った吹雪ですがこの後彼の下にひとりの男がやってきます。その男の人とは一体…?吹雪と『フギャー』の関係は?そして花音は…?それは皆さんでご確認を!

home