2005年8月
動物園 世界の終る場所(マイケル・ヴェンチェラ) 通のツール箱(松本英雄)
超私的まんが道2≪一冊入魂≫
EVIL HEART(武富智) .

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「おれは今日も昨日も幸福だった」部屋に向かい、彼は静かに言った。「言葉では言えないほど」

おれは多くの境界線を越えようとしている。おれはもうすぐお終いかもしれない。そこまでは分かりすぎるほど分かっている。だがもし生き延びられたら、この数日のことは覚えておこう。忘れないようにしよう。


世界には偉大なる幸福がある。われわれとは、ほとんど無関係に。
動物園 世界の終る場所

マイケル・ヴェンチェラ 都甲幸治 訳

学研 絶版です。

    1

1997年に出たこの作品を前にいつ読んだのかおぼえていないんですが、主人公の中年男にずいぶんと共感したのはたしかなので、悲観的なことばかりを考えていたあのころなんだろうなと再読しながら自分をふりかえっちゃいました。今回は、前回に読んだときのよさは全然損なわれないまま、さらによい読書になりました。しかし、すでに絶版の作品です。もったいない。とはいえ、誤植もいくつかあるし、それを直すだけでなく、同じ訳者にあらためて手を入れてもらって(たぶん訳者は今なら手を入れたいはずだと思います)、どこかから出してくれないかなあと思います。

主人公は50歳の医師ジェームズ・アビー。ひとり暮らし。妻のエリザベスは息子のエディを連れて出て行ってしまっています。ジェームズは夜に電気をつけずに裸で庭を見たりして過ごしています。この庭にはアライグマやオポッサムやコヨーテが現れます。どこの話かというと、ロサンゼルスです。

風にはほとんど音がなかった。木立や茂みのざわめきが、途切れることなく微かに聞こえてくる。近くの通りでスピードを上げるエンジン音や、一キロ半ばかり離れたゴールデン・ステート・フリーウェイから来る低い唸りを越え、気持ちのいい囁きがはっきりと聞こえる。だが、こうしてじっと台所に坐り、冷蔵庫が急に動き、急に止まると──動いている間は、モーターの音が妙にうるさい、修理が必要なのかもしれない。街の音は聞こえなくなる。止まった途端、小さな音の一つ一つが手の届きそうなほど近くなる。男はその瞬間を楽しんでいた。
自分でもその時を待っているのに気づいた。そしてそれがやって来ると、暗闇に坐り裸で、膝にタオルを乗せ一人でいる自分が、突然説明のしようもなく幸せだと感じた。そう思い、自分でも驚いた。だがそう気づいた瞬間、その感覚は消えていた。まるで気づいたこと自体が、その感覚を押しのけたように思えた。そして、消え去った幸福感は、新しい穴、怖れが入ってくる場所を残していった。それから幸福があったところに恐怖がなだれ込んできた。その素早い動きを感じるのは、とても苦痛だった。


──というのがはじまりのあたりなんですが、ちょっと『万延元年のフットボール』(大江健三郎)の冒頭を思い出しました。

ジェームズは別れた妻とのことを考えます。二人が言い争いをすると、

勝つのはいつも彼女だ。というのは、彼女は自分の言うことを信じていたからだ。一方彼は、自分の言葉も彼女の言葉も、何も信じてはいなかった。

こういうところですね、私が初読のときジェームズに強く共感したというのは。

ではもう一度、

勝つのはいつも彼女だ。というのは、彼女は自分の言うことを信じていたからだ。一方彼は、自分の言葉も彼女の言葉も、何も信じてはいなかった。

そして、

「誰のことも何からも守れないんだよ」彼はよく言ったものだ。突然激しく怒りだしたエリザベスと口論になるまでは。その時、エリザベスは怒りそのものの力で、ジェームズが今後二度とそんなことを口にするのを禁じた。そんなのは「言いわけ」だと彼女は言った。彼女は間違っている。彼女は正しい。どちらかと言えば多分、間違っているよりむしろ正しいのだろう。だが彼はそんなこと、いちいち考える気はなかった。彼女の怒りが勝ち、彼は受け入れた。彼には思い出せない。なぜ「誰のことも何からも守れない」のか、その理由を彼女に言ったっけ。それはこういうことだ。ある人が、どんなに守られていようが、その人はいずれある日、彼の、あるいは他の医師のメスの下にやって来る……


彼は軍医としてベトナムに行っていたことがあります。

ベトナム戦争中、外科用手袋が足りなくなることがよくあり、そのうちに彼は外科の「古典的な」手触りと彼が呼ぶものを身につけていった。手袋をしない裸の指で器具を持ち、患者の血液が肌に飛び散り、突っ込んだ手の側面に臓器がつるつる滑るのを感じ取る。そうしていると、自分が何千歳にもなったように思えてくる──それだけの間、人類は外科手術を試み続け、たかだか百年、いや実のところ六十年前にやっとその方法を学んだのだ。彼はその間の人類の努力の成果を分け与え、それを患者が受け取る。

「手袋をしない裸の指で」「突っ込んだ手の側面に臓器がつるつる滑るのを感じ取る。そうしていると、自分が何千歳にもなったように思えてくる」──いかがでしょうか?

かれこれ十数年前からになりますけれど、私は「1度きりの人生だからちゃんと生きよう」とか「ひとりの命は地球より重い」とか、その手のことばをきくといらいらして、たとえば「人生は使い捨てだ」などといいつづけてきているんですが、「誰のことも何からも守れないんだよ」ということにも大いに共感します。身近にいた何人かが20代で死んでいて、死というのは突然の激しい暴力だという印象ももっています。20代で死んでしまう者がいる以上(むろんもっと若い年齢での死もあるわけです)、30代、40代、50代での死について「早すぎる」なんてことはないのじゃないかとも思い、ましてそれ以上の年齢で死を恐れているようでどうする、とも思うんですね。いま、20歳で死んだ身近な者よりさらに20年以上も生きてきて、この追加の・余分な・いわば残業のような20年間に自分が何をしたのかと考えてみると、全然何もしていないのじゃないか、というのはしばしば考えます。もっとも、そういう視点・考えかたをいまでも全面的に肯定しているのではないんですが。しかし、ある時期そんなことばかりを考えていましたっけ。あのころには「そして、消え去った幸福感は、新しい穴、怖れが入ってくる場所を残していった。それから幸福があったところに恐怖がなだれ込んできた。その素早い動きを感じるのは、とても苦痛だった」のように、いろんなことが肉体的な苦痛として感じられることがあったのではなかったか、と思います。いや、いまではさっきも書いたように、「この追加の・余分な・いわば残業のような20年間に自分が何をしたのかと考えてみると」という問い自体に疑問をもってはいるわけですが。以上、大げさに書いてみました。


ともあれ、ジェームズ・アビーの状態はとてもよく描かれていると思いました。これがよく描かれていないことには、その先へ進むことができないわけです。私は、前回の読書では、ここまでがちゃんと描かれていたことにもう満足してしまっていたと思います。それで、残りはなんとなく読んだだけだったかもしれません。

    2

50歳のジェームズ・アビーはあることからひとりで動物園に行くことになります。

最近ロサンゼルス・タイムズにこんな記事が載っていた。男がライオンの囲い地に飛び込み自殺したと。ライオンたちは喜んだろう。事態は次々と進む。威嚇、攻撃、勝利──そしてむさぼり食う。誰も止められぬ間に。アビーに興味深かったのは、自殺した男が抱えていたはずの空想だった。きっと何週間も、もしかしたら何年も温めていた空想だ。飛び降りる瞬間、獣たちに打ち倒される瞬間、引き裂かれる瞬間。人が見ている。子供が見ている。人に見られるのも自殺の重要な一部だったのだろうか。

そんなことを考えているジェームズがその日、虎に話しかけられることになります。

しかし今、明るい午後の終りに柵を握りしめながら、下にいる虎をじっと見つめ、再び名前がはっきり静かに「ジェームズ」と呼ばれるのが聞こえると──その言葉に脅すような調子などないのに、まるで周りにあるすべてのものが彼を脅しているような気がした。
しかし今度は、自分自身に驚く番だった。後から自分の人生にとって決定的だったと思い返すことになる、そんな瞬間が訪れたのだ。その時、彼の中にある何者かが答えた。
「え?」


すると、動くなと虎はいったのでした。

二匹目の虎に気づいたのはその時だった。
確かに前にはそこにはいなかったし、見えなかった。囲い地の奥の方、大きな丸い岩の後ろ、とても大きく張り出した枝の葉陰にそいつはいた。そこに四角い入口があり、暗い空間に続いていた。人工の洞窟のようなものだった。そこで虎は休み、涼むことができるのだ。彼は思った。きっと囲い地の裏から飼育係の出入りできる通路があって、虎に餌をやったり世話をしたりしているのだろう。そして、今そこに二匹目の虎が寝ている。大きな頭をもたげ、まっすぐ彼を見据えていた。




さて、彼は動かずにここにいる。それはとても奇妙な感覚だった。どうしても立ち去りたかったのだが、できなかった。彼は感じた。自分はここを動かぬことに同意したのだと。口では言わなかったし、考えもしなかったが。
誰と? 何を同意したのか?
二匹目の虎とだ。それだけははっきりしている。
彼のある部分は、こんなことは起こるはずもなく起こるべきことでもないと知っていた。これじゃ本当に頭がおかしいみたいじゃないか。(「あなた、大丈夫?」エリザベスは行った。「頭がおかしいのよ」エリザベスは言った)。だが別のある部分は、確かに二匹目の虎の声を聞き、虎の意志に従っているのだと感じていた──他のどんなことより確実に。そしてさらに他の部分は、自分のこの二つの部分、抵抗している部分と降伏した部分を眺め、それらが共に並び立ち、そのどちらもが何一つ欠けることなく彼自身であることに驚いていた。
そして今、彼は二匹目の虎に守られているのだと感じた。

……虎がまた話しかけてくるだろうかとも思わず、自分が狂っているのではないかという心配もせず、次にどうしようとも考えなかった。心の中には何の悩みもなかった。その中心にはすさまじいほどの幸福感があった。……(略)……そして今まで彼が知っていた世界など、どんどんどうでもよくなっていった。その奇妙な幸福感を通じて、彼は何が一番彼のためになるのか、その獣が知っているのだと感じた。


そして、

閉園時間になり、係員が客を追い立て始めると、虎は彼にもう一言しゃべった。
また来い


虎のいうとおりに、ジェームズ・アビーは再びひとりで動物園に戻ってきます。

彼はたとえばゲレヌク(「羚羊の一種だ。……彼らの一歩一歩、首の動き一つ一つがまるでダンスだった。澄んだ静かな音で奏でられた軽い陽気な音楽に合わせて動いているようだ。そして突然、深い沈黙が訪れる。彼らはじっと動かない。わずかに先っぽに暗い色の房のある小振りの尾をさっさっと動かして、肛門から蝿を払っている」)の前に立ちます。

……彼にはゲレヌクが神の創り出したものというより、神の言葉そのものであるように思えた。
「創り出したものと言葉じゃ違うよな」彼は静かに言った。
まるで催眠術にでもかけられたように、彼の目はゲレヌクの上を動き回った。そして、自分の視線は彼らに触れているのだ、本当に触れていると感じた──視線を通し、まるで目に見えぬ光線で探るように、短く刈り込まれた細かい毛皮の手触りや筋肉のしなやかさ、柔かさを知った。ゲレヌクの方も彼の視線を、この上なく優しく触れてくるものとして受け取っていることが彼には分かった。だから彼らも身を竦めたりしない。
「おれは今、何を考えていたんだっけ?」打ちとけた口調で彼は言った。「あ、そうだ」


彼が何を考えていたかというと、

ゲレヌクは神の創り出したものというより、神の言葉そのものだ、そんなことを考えていたのだ。例えば芸術家は何かを創り出しているのだろうか、それとも何か言葉を語っているのだろうか? 二つのことは同じではない。ジェームズ・アビーはそう思った。創る人と創られた物とは分離している。創られた物はわが道を行き、自分の元いた場所との繋がりを断つ──ちょうど子供が大人になるように。だが、語る者と言葉とは離れることがない。言葉、表現とは、話される最中の言葉、叫ばれる最中の悲鳴、歌われる最中の歌だ。だからそこに表現がある時、その表現は終ってはおらず、完成も創り上げられもしていない。そうではなくて、たった今生み出されているその途中なのだ──おれのしゃべっている言葉、その意味、それはおれの口の中で生きている。おれと言葉との間に切れ目などない。だからもし、ゲレヌクが神の歌なら、ゲレヌクが生きている間ずっとその歌は歌われている。神の口は息の中で生きているのだ。おれと同じように、あなたと同じように。おれたちは一人ぼっちで忘却に追いやられてしまうような創造物ではない。神の息の中で生きる言葉なのだ。おれでさえも。あなたでさえも。ゲレヌクさえも。

そのときジェームズ・アビーは自分では気づかぬまま涙を流しています。

たぶん、あることをはっきり理解するということは、自分がそれまでいったい何を問題にしていたのかが明らかになる、ということでもあるでしょう。

彼は再び虎の囲い地の前に立ちます。そして、動物に歌いかける若い女性(彼より30歳ほど年下の)と出会うことになります。彼女の名前はリー。

リーが立ち去った後、虎が彼にいいます。彼女の後をつけろ」。そして「私が助けだ。縋りつけ。さもないと、おまえは終りだ


──と、まあ、この作品の最初の方だけをざっと紹介してみました。

「……虎が外科医にしゃべった! 女の子について行けと行った! ……(略)……大抵の男の人は、そんなこと虎に言われなくたって分かるのよ、先生」

──というのは、もっとずっと後のページでの話です。

さて、初読から何年かがたっていたので、私はこの作品がジェームズ・アビーの独白じゃなかったかと思いちがいをしながら読み返したんですが、それは当時私がこの作品の最初のあたりにばかり共感をしていたせいなんですね、きっと。さっきも書きましたが、ジェームズの行き場のなくなった感じばかりを読んでいたわけです。だから再読してみて、前回よりも全体を見渡せるようになり、むしろ後半の方に惹かれました。「虎が外科医にしゃべった! 女の子について行けと行った!」という、常識的な見地からすると荒唐無稽なストーリーが、そうでなく読めました。この作品は語るべきことを語っていると思います。荒唐無稽がどうのなんてどうでもいいことです。この「文体」は成功しているし、作者は大いに、しかもきわめてすばらしく「文体」と格闘しています(老婆心でいいますが、もしこの「文体」が成功していなかったら、荒唐無稽というのは致命傷になっているということです。これは大事なこと。勘違いしてもらっては困ります)。




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ノーガキ≠ナ極める工具箱
通のツール箱


松本英雄

二玄社 950円+税

私は機械がとても好きなものですから、当然のごとく機械を作る、あるいは整備する道具や工具といったものも大好きです。めったに使わない工具でも、たとえば東急ハンズさんや工具店で置いてあると、つい手にとって見ずにはいられません。
クルマの工具と言えば「snap-on」が有名ですが、本当によい工具を揃えようとすると、実際にはひとつのメーカー、ブランドでは揃えられません。この工具ならこのメーカー、この作業に適した工具ならこのブランド、といったようにメーカーによっても得意分野があるそうです。

そして良い道具というものには、なぜ良いのか、どこに差があるのかといった違いが当然あるわけです。工具をあまり使わない人にはどうでも良い知識で薀蓄とかトリビアとか言われる類ですが、そんな知識がたくさん盛り込まれていて、この本はそんな「プロじゃないんだけど能書きだけでも工具通になりたい」という私にぴったりの本でした。

今年の6月にクルマの車検を済ませてきたのですが、その整備工場は2階から整備工程を見学できるのですが、プロがてきぱきと工具を使う様は、見ているだけでもとても興味深く作業時間もまったく退屈しませんでした。また以前読んだ本に「良い作業員という人は、どんなにツナギが汚れていても、手のつめがオイルで黒く染まっていても作業場は整理整頓されていて、工具は大事にされている」といったことが書いてありましたが、そんなこんなも含めて知識とともにいろいろと感じさせてくれる本でした。






≪一冊入魂≫

第44回 『EVIL HEART』




本当の強さとは?
 
 ひと昔前ではイロモノ扱いでしたが、近年では年末の特大イベントが示しているとおり市民権を得た感じのある格闘技イベント。昔から格闘技好きな私にとってこのような環境になると、多くのイベントが放送されたりするようになってより多く試合を観ることができたり、また今まであまり扱われたことのない競技・武術まで紹介されるようになったりと嬉しい限りです。

 そんな私が今回紹介するのは『合気道』をテーマにした作品です。中学校の入学をきっかけに合気道と巡りあい、自分の心の闇へ対峙していくというお話です。純粋な格闘マンガというよりは少年の心の成長を描いた傑作です!詳しくは本文で。



EVIL HEART

武富 智

集英社 2巻まで 各505円+税
 まずは簡単な作品紹介から。

 桃園第二中学入学式。会場の片隅で上級生を相手に大暴れしている新入生がひとり。周囲からは白い目で見られている。彼の名は正木梅夫。式も終わり再び体育館の前を通り過ぎようとしたとき、中から大きな音が聞こえてくる。扉を開けるとそこでは梅夫が見たことのない格闘技の練習が行われていた。部活のようだがそうでない。辺りを見回すと大人や外国人まで混ざっている。背の大きな外国人が女性と対峙している。礼をする二人。手を組み合ったその瞬間!外国人の体が宙に舞う!ズバーンという音と共に床に押さえつけられる外国人。彼は梅夫の存在に気付き、笑いながら梅夫に近づいてくる。

 とそのとき梅夫を呼ぶ大きな声!それは彼の姉で高校生の正木真知子の声だった。体育館を後にし職員室に向かう二人。教頭に呼び出されたらしい。職員室に着くなり大声で謝罪する真知子。だが振り返った教頭の河田の手にはお茶とお茶受けが持たれており、しかも顔には満面の笑顔が。ケンカの状況を説明している隙に逃げ出す梅夫。

 ただ河田の目には梅夫が悪いのではないという状況がしっかりと映っていた。だがそのときの梅夫の『目』が気になったという。それを聞いた真知子は彼がケンカになると抑制がきかなくなることはあるが本来は臆病の泣き虫だが優しい奴だと弁護する。そして河田は何もなくても何時でも来なさいと真知子に告げるのだった…

 梅夫と真知子はのっぴきならない理由で祖父からの仕送りを受け、たった二人きりで生活しています。ただ真知子も友人からの誘いもあったり梅夫の面倒を見なければいけないなどいろいろ悩んでいます。その現状を理解し梅夫は早く一人前になりたいと思い強くなりたいと願うのです。だが強くなりたいのにはもうひとつ理由があります。というよりも本当の理由はこれなのですが…

 帰り道真知子と言合いになりケンカ別れしてしまった梅夫。ひとりトボトボと帰る彼の前に現れたのは入学式でイチャモンをつけてきた上級生とその仲間。面倒を起こさないと誓った直後なので争いを避けたい梅夫。だが足をかけるなどして絡んでくる上級生。我慢する梅夫。そのとき彼の過去を知る上級生の口からこう告げられた。

『先生や服役中のイカれたママにゃ黙っといてやるよ!!』

 とそれを聞いた瞬間その上級生の顔にめり込む梅夫の膝。二人を相手に一歩も引けをとらない梅夫。もつれ合う三人も前に転がりだす小さなナイフ。それを拾い上げる梅夫。眼つきが一変する。襲い掛からんとするそのとき彼らの前に大きな手が伸びてくる!そしてその腕の持主は梅夫にこう囁く。

『こんな視線、駄目だよ君』

 刹那、梅夫の体が宙に舞う!そして上級生の体も地面に抑えつけられるのだった。ケンカも治まり立ち去る外国人の後を追う梅夫。何を使ったのかを聞こうとすると、またこわい顔をしながらケンカをするのかと聞き返される。やられる前にやるだけだと答える梅夫に対し、彼は滑稽混じりでこう告げる。

『先手必勝ならもっと良い技があるよ。君みたく〔クワッ〕じゃなくてこう!笑うのさ先に。』

 ポカンと呆れ顔の梅夫。立ち去ろうとしたそのとき追いかけるように彼は続ける。

『僕ダニエル。君はっ?技ならできるよ。覚えればね。でも何も解決しない技でいいの?日本に来て間もない頃僕も嫌な顔ばっかりしててさ。嫌な奴でさ。でもそれじゃあ“駄目です”って教えてくれたんだ、合気道が…!水心あれば魚心。ウメ、友達も敵も自分がつくるんだよ。素敵だろ?君の国の武道。ほいだからこう!ね!』

 ダニエルと合気道との出会いがこの後の梅夫に大きな影響を与えていきます。ですがそう簡単にはいきません。服役中の母親とは一体何なのか。それは次のコーナーでさらに。
超私的お気に入りエピソード

梅の第一教

第2巻P.187〜204
 梅夫の母親は梅夫の兄・滋の暴力に耐えかねて彼を殺そうと包丁で刺して捕まり服役中。そしてその兄も姿を消していたのだが、ある日家に戻ってきてダニエルに出会い少しではあるが落ち着いてきた梅夫の心を再び乱す。そんな時兄を慕い圧倒的な暴力を持つ同じ中学の上級生・阿部と出会う。兄から家族を守りたい一心で一日でも早く強くなりたいと願う梅夫は彼に惹かれていく。だが阿部はそうではなかった。

 その食い違いから学校の屋上でケンカを始める梅夫と阿部。そのときもつれ合い屋上から転落しそうになる阿部。手を握り引き上げようとする梅夫だが力及ばず落下する阿部。そのときダニエルが窓から飛び出し予め争っていたのを確認していたので手配しておいたマットの上に落ちたため、ダニエルが肩の骨を折っただけですんだ。この状況を見た梅夫は『死』というものを初めて感じとり『生』の重要さを思い知る。そしてダニエルは笑顔でこう呟くのだった。

『…大丈…夫。大丈夫だよ………ウメ。君は君だから…君は君だから……!』

 何度も裏切ってきたのに笑いかけてくるダニエルを見て戸惑う梅夫。間近で彼らのケンカを見ていた上級生が梅夫に襲いかかる。だが梅夫は疲れと戸惑いで戦うことを望まない。殴られそうになるまさにそのとき上級生の体がフワリと宙に舞う!そしてダニエルの言葉を思い出す…

『いいんだよそんな力まなくて。』

『何でだよ!めいっぱいやんなきゃ相手ブっとばせねーだろ!?』

『………今の自分の力じゃ目の前の壁をどうすることもできない。そんな時君は合気道に何かを感じた。それって何だと思う?』

『いいから早く技教えろ!!』

『よし じゃあ最初の技…第一教(腕抑え)』

『イッキョー?それ人ブっとぶ?』

『ブっとばさないけど………』

『ブっとぶやつがいい!』

『けどこの一教こそ僕は最強の技だと思う!きれい事だけじゃないぞ、合気道は。まあやってみよう。手を合わせて…自分から攻めるならそれなりの腕力も必要だけど……合気道には攻める技はない。あけまで受身でないと成り立たない。相手の力をつかうからさ。僕がひけばウメがおしよせる。この軌道を変えて導くだけだよ。』

『わっけわかんねえ!!』

『わからなくてよし!体で覚えよう!側面に入りながら肘手首キャッチ!ホイっ斬り下ろす!さらに前進して相手を崩す。跪座で押さえる。無理矢理じゃなく自然に ね?相手との一体感が技を決めるんだ。人を動かすのは力だけじゃないよ ウメ。』


 この後梅夫の心境と環境にどのような変化が起こったのかは皆さんでご確認を!1・2巻一気に読めば、今回この作品が何故同時発売されているのかという理由がはっきり判ります。当コーナーの短いスペースでは表現しきれない本作の持つ本当の魅力、下手な自己啓発本よりもよっぽど優れているのではないでしょうか?是非是非ご堪能あれ!

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