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2005年7月
シルトの岸辺(ジュリアン・グラック) 日経Kids+
超私的まんが道2≪一冊入魂≫
山手テレビキネマ室テレキネシス東周斎雅楽+芳崎せいむ

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「一度でも何かがほんとうに生れてきてしまえば、それはもう《たまたま起きた》ことではなくなるんだわ。その瞬間から、もうほかの見方はできなくなってしまうの。それが存在しなかったかもしれないなどということは、問題にならなくなってしまうの。それでいいのよ」
シルトの岸辺

ジュリアン・グラック 安藤元雄 訳

ちくま文庫 1400円+税

以前に買ってあったこの本をようやく5月に読みはじめ、6月2日に読了。数日おいて再び最初から読み返し、6月15日に読み終えました。初読では途中からこちらの集中力がつづかなくなり、落ち着きのないまま、ちゃんと作品に向き合わないまま最後のページまで行ってしまったという自覚があっての再読でした。とはいえ、そういう読書をしたからという理由で、こんなふうにすぐ再読にかかる本はまれにしかありません。というか、この再読は、なにより作品があまりにもすばらしいから初読では手に負えなくなった、だから……ということです。

初読の印象はこんなふうでした。この作品は最初から最後までただひとつのことしか書かれていない。そのただひとつのことをかりに「A」としますと、まずひとつひとつの文章がすでに「A」で、そういう文章で構成された(「AAAAAAAAAAAA……」)ひとつの段落全体がまた「A」となり、その段落が重なってのひとつの章の全体が「A」。そういう章が全部で12あって、つまり「AAAAAAAAAAAA」。そうして作品全体がやはり「A」になっている……。そして、この「A」は作品の最後で発展の末に完成するというのではなく、そもそもの最初からすでに「A」として完成しています。そういう印象です。あの、いいですか、印象です。(「訳者あとがき」に引用されている作者自身のことばとして「この小説は、その最後の章まで、決して火蓋の切られない一つの海戦に向かって、カノンの進行をする」というのにもうなずけました。)

で、再読したときにその印象はどうなったかというと、その「A」の果てしない反復ということはあまり気になりませんでした。そういう認識よりももうこの作品のひとつひとつの文章の織り成す大きい流れというかうねりというか、そういうものにどっぷりと浸かってしまい、知的に解釈するとかなんとかいうことはどうでもよくなってしまったんですね。目をつぶってじっとこの『シルトの岸辺』という音楽を聴いているという感じでした。おそらくこの先何度でも聴き返すことができそうです。

ちょっと引用すると、こんな文章です。

荒れ野原の、雨もよいの草むらと垂れこめた雲の向うに、朝が昇った。傷やら瘤やらででこぼこの細道に、ところどころ大きな病斑のように短い草が生えていたりして、車はひどく揺れた。この細道は一種の塹壕に似ていた。両側とも人の背丈ほどの高さに、密生した灰色の藺草の海の中を鋭い角度で切り通したようになっていて、その藺草の海のおもては気が遠くなるほど広々と見わたせるばかりか、道がたえずうねうねと曲っているためにいつ見ても出口がふさがっているような気がする。流れる霧をすかして目の届くかぎり一本の木立もなく、一軒の家もなかった。ぶよぶよと柔かい夜明けの空から、ときおり穴でもあいたように斜めに光の縞がさしてきては、燈台の光がその穂先で闇をまさぐるのに似て、低い雲にぶつかってよろめいて行く。そして妙に親しげに気を引く雨、人の意表をついて内緒話をしかけるような俄か雨がぱらぱらと降り出し、濡れた草の葉や溜り水のむんとする匂いをますます強めて、この何とも言えずわびしい景色を塗りこめてしまう。まるで雨のしずくではなく、葉先からしたたるころころした粒ででもあるかのように、水滴の一つ一つが柔かい砂地にくっきりと痕を残す。

眠くなりましたか? かまわず紹介をつづけますが、

語り手の「私」はオルセンナ共和国の名家の生まれで、

私はまた恋愛にも精をだして、人並に情熱的で、人並に融通の利くところを見せた。たまたまあるとき、恋人だった女が私から離れて行った。それでも最初のうちはただおもしろくない気分になっていただけだが、やがて不意に、別の女をつかまえてやろうという気持がいっこうに湧かないのに気づいたとき、私は初めて心底からぎくりとした。日常の暮しの編み目が知らぬ間に度を越えて伸びきっていたところへ、このちょっとした綻びが生じたために、つい昨日までは結構な生活と見えたものが、いきなり目の前でぼろぼろにちぎれてしまったのだ。自分の生き方が取り返しのつかぬほど空疎に見えてきて、いい加減な家を建てておいた地盤そのものが足もとから崩れ落ちて行った。私は急に旅に出たくなり、遠い僻地の勤務に採用されるよう、政庁に願いを出した。

そこで配属されることになったのが、「オルセンナ領土の際涯の地」であるシルト州の遊撃艦隊でした。

オルセンナはシルト海を隔てたファルゲスタンという国と300年にわたって戦争状態にあります。といっても、この300年間に実際の戦闘はまったくありません。

実際、もう三世紀もむかしになるが──まだシルト海に船の行き来があった時代に──ファルゲスタン人が沿岸で海賊行為を重ねたため、ついにオルセンナ側が報復の遠征艦隊を発進させ、これが敵の海岸に迫って容赦なく港を砲撃した。その後も何度か小ぜりあいが続いたが、双方ともに存亡をかけての争いでもなかったから、戦闘はやがて下火になり、ひとりでにばったりと途絶えてしまった。

で、

だが、このようにすべてが沈滞してしまうと、武器をとって戦い続ける意志がなくなると同時に、法的に戦争を終結させようという気も起こらなくなり、……

という事情なんでした。

300年間も平和がつづき、オルセンナ共和国は衰えてしまっています。そして、ある種の倦怠を感じる若者「私」がシルトの岸辺に配属されます。そうして、ここからは比喩でいいますが、「私」の前にはひとつのドアがあり、「私」はそれを開けてはならないといわれています。しかし「私」はいつもそのドアのことが頭から離れず、何度となくその前に立つことになります。あるときノブに手を伸ばしてみると、ドアには鍵がかかっていません。そして「私」は……というようなストーリーですが、それはともかく、実際の文章に触れてもらいたいものです。

たとえば、

室内に目が慣れてくるにつれて、私はそのあたりに一組ずつ坐っている男女の、姿態と言い、しぐさと言い、実に自由奔放なありさまなのを見て、あらためて驚かされた。彼らは当然ながら、ここならばそれほど人目にも立つまいと見て、このホールに集まってきたのだ。あまりにもしなやかにたわんだ頸の曲線、あまりにも重たげなまなざし、薄暗がりに半ば開いた唇のつややかにふくれあがったさまなどを見ると、何とも言えぬ微妙な挑発的雰囲気、隠微をきわめた官能の磁力が、にわかにそこここで火を点じたような気がする。ほんのかすかな身動きが、ほとんど目につかないほどこっそりと行われるかと見るまに、たちまちほかのものよりもありありと目に映って、さながら眠っている人間のしぐさと同じほどの深みでうごめいているように見える。そうやって、深海の洞窟を思わせる世界にひたっているうちに、私はふと、背筋に息を吹きかけられたように、もっと鋭い、もっと身近に迫ってくる一つの存在をはっきりと感じ取った。私は素早くあたりを見まわした。私に触れぬばかりのところに、という気がするほど、いきなり扉にぶつかるようにそれに行き当たったのだが、一人の若い女の顔が私のほうに向けられていた。そして、恥や外聞を超えた彼岸から私の目を捉えて離さないその女の目の、ぴたりと吸いついたさまを見たとき、私はもはやその目から顔をそらすことなど問題にならないと悟った。
およそ暗黒の世界からとび出そうとしそうなもののうちでも、もっとも身を縮めた、もっとも夜行性のものが、その瞳孔の中から私のほうに向いていた。二つの目はまばたきもせず、輝きもせず、見てさえもいなかった──濡れてぎらぎらと静まり返っているところなど、まなざしというよりも、むしろ闇の中にぽっかりと口をあけている貝の蓋を思わせる──それはただ、海藻の巻きついた異様に白い月光の岩の上に浮き出して、黙ってそこに開かれている。嵐のあとの野づらのように乱れた髪の中で、その静かな石塊のくぼみがいわば星空に向けて口をあけているようだ。唇もまるで指に撫でられているようにわなわなとうごめきながら、くらげのような小さな口のようにむきだしになっている。急にひどく寒けがしてきた。



あるいは、これはいまの引用とはべつの女性ですが、

どうやら彼女は、あたりに誰もいないと思いこんでいるらしい。たったいま水浴からあがったと見え、幅の広い水兵ズボンと、胸あきの深い短い袖なしシャツを身につけただけで、両腕はむきだしのままだった。彼女はいま、濡れた髪をしぼろうとしている。わきのくぼみには栗色の茂みが揺れ、胸のくぼみには暗い谷間が見える。ピンをくわえて、きっと結んだ唇が、緊張した顔全体に思いがけなく子供っぽい表情を漂わせ、どっちつかずの無邪気さと小学生のような一心不乱な熱中ぶりを見せたその唇は、いわばあまりにも露骨な形で自分の仕事に没頭しきって、息をはずませ、まるで人食い花のような強烈さで、物をくわえて捉えるという盲目の動作一つに生きているような感じだった。


いや、そういうのでなく、登場人物の会話の方がいいですか?

「もし君が、それでは退屈すぎる、倦怠におちいるのは厭だ、ここでいちばんいい方法だという単調な生活などごめんだ、と言うのなら──いいかい──それなら今度は私から、友人として、父親として忠告してあげよう。君が好きだからこそだよ、アルドー。君は毛並みもいいし、政庁でも信任の厚い家柄だ。私の忠告というのは、ここを出て行くことだ」
「出て行く?」
マリノの目は海原をさぐるように、捉えがたい目標を求めて遠くをさまよった。
「ここは一つの釣合いというものがあって、私がそれを維持しているのだ。むずかしいものでね。片方に重みがかかりすぎたら、それを取り除かなくてはいけない」
「重すぎるものというのは何ですか」
「君さ」


上でちらりと紹介したストーリーの、あの開けてはならないドアへの誘惑とその重要性を知りつくしているのがマリノ大佐で、彼は「私」(アルドー)にむかって、あんなドアのことは忘れてしまえ、本気にするな、と警告するんです。
はじめのうち、「私」はあのドアを、それに引きつけられこそすれ、単に可能性として、理屈としてだけ本物でありうるはずだとしか考えていませんでした。そこにたとえばマリノ大佐の警告が加わるというようなことが重なっていき、「私」はいよいよあのドアを本気で考えることになります。しかもマリノ大佐が見抜いていたように、「私」こそはあのドアをほんとうに開けてしまうことを本気にできるだけでなく、実行に移してしまう危険性を秘めた人間でもあったわけです。
そういった事情を上の「わきのくぼみには栗色の茂みが揺れ、胸のくぼみには暗い谷間が見え」た女性がこんなふうにいいます。

「人間たちが肩を触れ合って暮しているからといって、それだからいっしょに生きているんだなどと考えるのは、目をあげれば見えるはずのところを一度も眺めたことがない証拠だわ。ある人たちから見ると、呪われているとしか言えない町があるの。なぜって、ほかでもない、その人たちにとってはそれがあるからこそ生きて行けるはずのあの遠い地平線を、ひたすら閉ざしてしまうためにだけ生み出され、築きあげられたような町なんですもの。住み心地のいい町。どこからも世界が見えなくて、ただ箱のなかの栗鼠みたいに自分の車をまわすだけの町」

そして、シルトのある農場主──彼は死にかけています──は「私」にいいます。

「わしはな、万事がいつまでもいまのまま変らないなどと頭から信じこんでいる手合いには、どうにも我慢がならんのさ」
彼は目を細めて、眠ろうとするのか、首をゆらせはじめた。
「……たぶん、ろくでもないことだろうよ、万事がいつまでも変らないなんてことは」


もうこれで引用はやめようと思いますが、どのようにしても止めようのないあることに向かって「私」は──それは「私」だけの問題なのではないんですが──進んでいきます。というか、この作品は、どのようにしても止めようのなかったあることへのいきさつを「私」が後から語っているんです。この紹介で初読の印象をいった「A」云々はこれに関係しているでしょう。どの文章も、その止めようもなかったあることの方へ向かっているわけです。そのために、この小説の登場人物たちにはあの以前に紹介しましたべつの作者の作品の「……広大な客観的現実の様相はさもあらばあれ、「微塵モ積リテ山ヲ成ス」こともいつの日かたしかにあり得るのではないか、──もしも圧倒的な否定的現実に抗して、あちらこちらのどこかの片隅で、それぞれに、一つの微塵、一つの個、一つの主体が、その自立と存続と(ひいては、あるいは果ては、おそらくそれ以上の何物かと)のための、傍目にもわが目にさえも無意味のような・無価値のような・徒労のような格闘を持続するに耐えつづけるならば。」(大西巨人『神聖喜劇』)というような意志はなく、この小説世界はそういう意志の入りようのない文体でつくられているんです。なんといえばいいか、『シルトの岸辺』では人間も自然・自然現象のように、たとえば植物とか気象ででもあるかのように描かれているんですね。誰にもなんの責任もなく、すべてはとてつもない大きな流れのせいなんです。

しかし、いまはそんなことよりも、この作品を音楽のようにじっくり味わうことが大事だと思います。眠くなるひとも多いことでしょうが。



……………………………………………………

ところで、私がこの本を読むことにした理由のひとつに、「解説」を書いているのが星埜守之だということがあります。アンドレイ・マキーヌの『フランスの遺言書』、『ある人生の音楽』の訳者です。『シルトの岸辺』にはこの作品の「訳者あとがき」があるにもかかわらず、べつに星埜守之の解説を載せているんです。






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日経Kids+(キッズプラス)



日経ホーム出版社 550円(税込)

子育てを頑張るパパの応援雑誌『Kids+』の2号目が発売になりました。好評だった1号目の「絵本特集」に続き、今回は「一生忘れない夏休み」特集です。

●無人島へのサバイバル体験や、山でのツリーハウスづくり、洞窟探検や里山での昆虫探しといったアウトドア。
●くじらやイルカ、海ガメの産卵、タンチョウ、ヤマネなど野生動物に会いに行くアニマルウォッチング。
●廃校宿泊やトロッコ列車に乗ったりといったレトロな旅。
●アクアリウムやポップアップ絵日記、ペットボトルソーラーカーなどおもしろ工作。

童心に帰って子供と一緒に楽しめるプランが盛り沢山です。まだ夏休みの計画が決まっていないという方は参考にしてみては。
その他にも「親子を幸せにする七色の言葉」の特集ではあらためて会話の大切さを気づかされます。
母親向けの育児雑誌といったもおはいくつかありますが、父親向けといったものは今までになかったので、子供との時間を大切にしたいなと考えられている方は一度手に取ってみてください。





≪一冊入魂≫

第43回
 
『山手テレビキネマ室テレキネシス』




映画はお好きですか?
 
 私は本も好きですが、最近では本以上に映画関係にお金を費やす機会が多くなっています。昨年は年間100本以上、今年も月10本以上という昨年以上のペースで順調に本数を重ねています。

 映画との出会いは小学生の頃で、古くは松田優作や薬師丸ひろ子、原田知世らが大活躍していた角川映画やハリウッド黄金期の作品、最近では邦画・アジアンムービー中心でミニシアターを渡り歩いている日々…しかも自宅には300枚近いDVDの山々が待っておりまして…といった具合に生活の上で映画というものは切っても切り離せない感じにまでなっているのが現状です。

 今月はそんな私にうってつけの作品を紹介します。それはTVの深夜映画番組担当スタッフを中心として繰り広げられる作品です。劇中で紹介される映画のタイトルは観たことのある作品もあるものの結構観たことのない作品もあり、休みや仕事の帰りに立ち寄るDVDコーナーでその作品を物色していることもしばしば(笑)

 映画好きな方はもちろんのこと、マンガ好きの方にもたまらない作品!気になった方は是非!そして週末にはレンタルショップやDVDコーナーへダッシュ!



山手テレビキネマ室テレキネシス

東周斎雅楽+芳崎せいむ

小学館 1巻まで 505円+税
 まずは簡単な作品紹介から。

 映画館の中に1組のカップル。スクリーンには1974年作の日本映画『砂の器』が映し出されている。男が語りかける。

『マキノ、いいなあこの映画。』

『う、うん…でも前の男、なんとかならないかなあ。頭が邪魔……』

 すると突然大声で泣き出す前の男。あまりの凄さにひいてしまったふたり。映画も終了し、作品とともに映画館を褒めるマキノ。すると前の男がいい映画館ではないと文句を言ってくる。劇中からの不満が爆発したマキノ。その男に対して反論する。が決してマキノの方を見ない男の態度に更に怒りを爆発させる。そして強引に振り向かせた男の顔は涙の跡でいっぱいになっていたのだった…

 彼女の名前は野村真希乃。ドラマで有名な関東最大の民放局・山手テレビの正社員になることになっています。その入社前の日に彼氏である祐と一緒に映画を観にきていたのでした。

 ドラマ部希望の彼女が入社日当日に配属されたのは残念ながら映画事業部でした。ただ近年はTV局の映画制作が好調なので期待する彼女でしたが更に残念なことに配属されたのは制作班でなく放映する班、しかもゴールデン枠の『火曜洋画劇場』ではなく深夜に放映されている『金曜深夜テレビキネマ館』でした…

 そこは旧社屋にある試写室で活動しており、映画事業部の『第三の男』と呼ばれるプロデューサー・東崋山が我物顔で放映している番組でした。要はマキノは問題児扱いの彼の見張り役として配属されたのでした…

 予想外の配属に不満をもらしながら旧社屋試写室に赴くマキノ。試写室から出てきたひとりの男。火照り顔でムラムラした気分も治りスッキリした様子。彼はマキノに試写室のカギと『例のビデオ』と囁きながら封筒を手渡す。試写室に入り崋山の姿を探すマキノ。その試写室の置くには無数のフィルム、ビデオ、そしてDVDが所狭しと積まれていた。

 そのとき外から女性の声が。彼女は映画部のバイヤー・小津美登里。マキノに伝言を頼みながらもテレキネシス室を私物化してポルノ上映会をしているなどの崋山の良からぬ噂を教えるのだった。そして彼女が出て行ったあと『例のビデオ』を封筒から取り出しタイトルを見て顔を赤らめる。そして最低とひと言口にするのだった。

 そしてそのときまたも来客が。それはマキノの憧れでもあるドラマ部の名プロデューサー・桑原だった…

 桑原プロデューサーは前回制作したドラマが低視聴率だった為にドラマ部以外の部署に配属されてしまいます。しかもライバル局の日の丸テレビにヘッドハンティングされて移ろうとしています。ですがそれを聞いた同期の崋山は才能がないのがばれるから止めとけと言っている様子。そして3時からテレキネシス室で崋山推奨のビデオを観ることになっていました。封筒に入っていた桑原宛のビデオ、それはかの名作『風と共に去りぬ』でした…

 桑原を残し再び崋山を探し始めるマキノ。途方にくれ試写室前で待っていると聞こえてくる無気味な足音。更に音が近寄ってき、ナイフのようなものを持った人影が現れる!とそのとき現れたのは大量のビデオとソフトクリームを持った男だった。その男こそ東崋山。よくよく見るとその男、昨日映画館で見た迷惑男だった。

 桑原が訪問してきたことを聞き彼が言ったのと同様に桑原には才能がないと口にする崋山。それを聞き反論するマキノ。それに対し崋山はこういう。

『物作りとしては、才能ないと言ってる。…本気になればいくらでもアイデアが浮かんでくるなんて考える手合いはな。』

『じゃ、才能ってなんですか?』

『自分が何を持っているかじゃなく、何を持っていないかがわかることだ。』

 何故崋山は桑原に『風と共に去りぬ』を選んだのでしょうか?そして『例のビデオ』のタイトルとは?そして観終った桑原は?それは皆さんで確認を!ちなみに『例のビデオ』のタイトルは不朽の名作ですが勘違いされても致し方のないものですね(笑)
超私的お気に入りエピソード

オール・ザ・キングスメン

P.45〜74
 劇場にかかる『オール・ザ・キングスメン』の看板…

『貧しい農民が権力の座に上り詰め、腐敗し、悲劇の死を遂げる政治ドラマ…』

『ふぁ…なあマキノ。おまえ最近古い映画ばっかり付き合わせるな。』

『映画で気になった台詞……「善は悪より生まれる」…と。古典を観ろってあの人が言うの。』

『勉強しろってか。』

『ううん、映画は勉強じゃないって。』

『じゃ仕事?』

『映画を仕事に持ち込むなって。』

『わけわかんねえ上司だな。』

『でしょ?』

 そして山手テレビを指差しひと言。

『打倒崋山!』

 今日も姿の見えない崋山に文句をブツブツ言いながら仕事を続けるマキノ。そんな時TV画面に映っているのは彼女の同期で報道部の岡本でした。入社して間もないのに既にニュース番組で中継に出ている彼でした。そのときテレキネシスのドアが開き、入ってきたのはその岡本でした。

 マキノは彼の活躍を褒めますが岡本は手柄は上司の鬼頭が独り占め、しかもその番組の内容はもの凄い偏向的な報道で、その片棒を担いだことへの不満でいっぱい、しかも辞めたいとまで言い出す始末。そんなときに突然大きな声が!それはテレキネシスの主、崋山の声でした…

 声を出したのは自分で観る順番に積んでおいたはずのビデオの順番が違っていたことへの不満だった。明日は『黒い罠』、そして明後日は『スミス都へ行く』…順番変更不可!などとひとり世界に入り込む崋山を他所に岡本はまた明日相談にくると言い残して退室する。その物音でようやく彼の存在に気付く崋山だった…

 翌朝会議に出席するマキノ。崋山はいつものように欠席。会議からの帰り道美登里がまた崋山を揶揄しながら同行する。すると報道部のミーティング室の前を通りすがる。美登里は会議の中心となっている鬼頭プロデューサーを能力のある上司のひとりと言う。だがその会議室の中にいる岡本の顔色はさえたものではなかった…

 約束の時間。岡本がテレキネシスと訪ねるとマキノの姿はなく崋山がいるのみだった。マキノは崋山の勤務態度の報告をかねて上司に食事に誘われていたのだった。マキノがいないとわかり帰ろうとする岡本。だがそのとき崋山は戻ってくるまで映画でも観ていかないかと声をかけるのだった…

 その映画は白黒映画…テーマソングは『アルプス一万尺』…そしてノッポな主役の男優…最初は古臭いと馬鹿にするもののなんだか良い…そして隣には泣きながら画面に没頭する崋山の姿…泣きながら崋山はこう呟く。

『頑張れ…頑張れ…人は、一度や二度闘わなきゃいけない時がある。頑張れ…』

 崋山と岡本が観た映画とは?そして観終った岡本がとった行動とは?それは皆さんでご確認を!ちなみにこの作品(『オール・ザ・キングスメン』ではありません)、私は観たことありませんでした。実はこの作品とこの後他のエピソードで出てくる作品2本(エピソード4の『サンセット大通り』とエピソード6の『大いなる勇者』)、計3本買ってしまおうか悩んでいるところです。

 余談ですがこれらの作品のDVD、当店でも取寄せることが出来るようになりましたので気になられた方、他の作品は?と思われた方は是非ひと声お掛けくださいませ!

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