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2004年12月
あなたの人生の物語(テッド・チャン) ──番外編──『フランスの遺言書』
『フォー・レターズ・オブ・ラブ』『魔羅の肖像』
6ステイン(福井晴敏) フォックス先生の犬マッサージ
(Dr.マイケル・W・フォックス)
ねずみのえんそく もぐらのえんそく(藤本四郎) 電車男(中野独人)
思い出に残る食事(西村博之 編)
超私的まんが道2≪一冊入魂≫
OZ完全収録版(樹なつみ) .

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あなたの人生の物語

テッド・チャン 浅倉久志 他 訳

ハヤカワ文庫 940円+税

この作家の描く光景はたとえばこういうものです。

鉱夫たちは登りつづけ、やがてそのうちにある特別な一日がやってきた。斜路の上を見ても、下を見ても、塔がまったく同じように見える日だ。下を見ると、一本柱のような塔がしだいに縮まって、眼下の平原にたどりつく前に見えなくなってしまう。それとおなじように、鉱夫たちはまだまだ塔のてっぺんが見えてこない。見えるのは、塔のまんなかの部分だけだ。見あげるのも、見おろすのも恐ろしい。なぜなら、連続性という保証が消えてしまったからだ。もうここは地上の一部ではない。この塔は空中にうかんだひとすじの糸で、大地にも天にも接していないように思える。
(『バビロンの塔』)


この塔は実際に天に(天の底部に)接している(鉱夫たちはそこを掘削していく。そして……というのがこの短編の筋になる)んですが、そういうことより私の関心はこの作家の描くこういう光景に向きます。「連続性という保証が消えてしまった」この場所、「もうここは地上の一部ではない」というこの場所の提示。この場所にいることの恐ろしさ。これは単に高い場所にいる、遠い場所にまで来てしまった、ということの恐ろしさではなくて、もといた場所での常識や思考や信念の通用しない、それらでは測りうることのできないべつの世界に入ってしまったということの恐ろしさです。それが、鉱夫たちののぞきこむ光景に具体化されているんですね。
(この構図はたとえばトーマス・マンの『魔の山』にもあって、主人公が平地からアルプスの高地へ「魔の山」へとあがっていくことで、平地では考えられない非常に奇妙で特殊な経験をすることになるんですが、この『バビロンの塔』では、作品が短編ということでもあり、素材が素材だけにはっきり尖鋭化され、その恐ろしさが強調されます。)

上の引用はこういうふうにつづきます。

登りのこの段階までくると、ヒラルムはいままでの世界から見知らぬ場所へ移された気分で、何度となく絶望感におそわれた。まるで大地が不信心な彼を追放し、天がまだ彼を受けいれてくれないような気分だった。

ここでべつの作品──先の鉱夫たちに代わって、今度はある数学者がやはり恐ろしい場所に至り着くことになります──『ゼロで割る』を。

彼女はカールをさえぎった。「わたしがなんに悩んでいるかを知りたい? わかった、じゃ話すわ」レネーは一枚の白紙をとって、デスクの前にすわった。「待ってて。ほんの一分ですむから」カールはまた口をひらきかけたが、レネーは手まねで彼を黙らせた。大きく息を吸うと、白紙に書きはじめた。
まず彼女はページの中央に縦線を一本入れ、ふたつの長方形に分割した。その一つの上に1≠ニ数字を入れ、もうひとつの上に2≠ニ書いた。その下にいくつかの記号を走り書きし、その下の行では、それをほかの一連の記号にひきのばした。書きながら歯を食いしばっていた。その記号を書きこむのは、まるで黒板に爪をこすっているような気分なのだ。
そのページの三分の二ほど下から、レネーは記号の長い一列を縮め、しだいに短い列へと書き換えていった。いよいよとどめの一撃よ、と彼女は考えた。自分が紙を強く押しつけているのに気づき、意識的に鉛筆を握る力をゆるめた。つぎに書きこんだ行では、ふたつの記号列が同一になった。ページの下、センターラインの上に、彼女はしっかりと==iイコール)の記号を書きたした。
彼女はその紙をカールに渡した。カールは理解不能という顔つきで彼女を見つめた。
「いちばん上を見て」彼はそうした。「こんどはいちばん下」
カールは眉をひそめた。「よくわからない」
「わたしの発見した形式的体系では、いかなる数もそれ以外の任意の数に等しいという答えが出るのよ。そのページは、1と2が等しいという証明。どんな数でもいいから、ふたつ選んでみて。そのふたつもやはり等しいことを証明してみせるから」


やがて、

「きみは自分のまちがいを発見できずにいる。そういう意味か?」
「いいえ、よく聞いてなかったのね。そんなことでわたしがフラストレーションを起こすとでも思う? この証明にまちがいはないわ」
「つまり、公認の体系の中にまちがいがあるというのか?」
「そのとおり」
「まさか──」そこで口を閉ざしたが、もう遅かった。彼女はカールをにらみつけた。もちろん、確信があるからだ。カールは彼女がなにをいおうとしているのだろうかと考えた。
「これでわかった?」とレネーはたずねた。「たったいま、わたしは数学の大部分が誤謬であることを証明してしまったのよ。数学はもう無意味になった」


この数学者レネーは、自分が発見してしまったこと、しかもそれがまちがいでないことを知っています。これに対して、カールは単に、そんなはずはないと思うだけで、ことの意味、この重大さがまるっきりわからないままです。レネーにしてみれば、そんな彼の立場がうらやましいでしょう。しかし、彼女はもう知ってしまったんですね。それを知った彼女に見えているのはいったいどんな光景なんだろうか。それはものすごく恐ろしい光景であるにちがいないと思います。「数学はもう無意味になった」ということは、たとえば「神は死んだ」というようなことです。神が死んだからってそれがなんなんだという感覚のひとには理解できない苦しみと、そういうひとに理解されない苦しみという二重の苦しみが発生してきます。

最近の彼女は、とりわけカールとのあの口論以来、他人との会話に困難を感じているようすだった。おなじ学部の同僚たちは、彼女を避けるようになった。精神集中も失われ、昨夜などは悪夢を見たらしい。その悪夢の中で、彼女は任意の概念を数学的表現に翻訳する形式的体系を発見した──つぎに、生と死とが等しいことをも証明したという。
レネーはあるものにおびえていた──自分が正気を失いはじめているという可能性だ。たしかに思考の明晰さは失われつつあり、その可能性はかなり濃かった。


また、4ページあまりで終わる作品『人類科学の進化』でも、この本の表題作『あなたの人生の物語』でも、私たちがふつうに抱いている常識や思考や信念の通用しない、それらでは測りうることのできないべつの世界が提示されます。いま人間が知らないでいるべつの思考法、世界のべつのとらえかたがある、それによって世界を記述する言語も変わらざるをえない。そういうことが描かれます。

もうこれまでほんとになんべんも引用していますけれど、テッド・チャンというこの作家の考えかたには彼≠ノ通じているところがあります。また引きますが、

「でも来世には、蜘蛛とか、そんなものしかいないとしたら、どうですかね」突然彼が言った。
『この男は気違いだ』とラスコーリニココフは思った。
「たとえば、私たちは永遠というものを理解を絶した観念、なにか途方もなく大きなもの、巨大なものとして考えていますね。しかし、どうしてそう大きなものと決めこまなくちゃならんのです? それよりひとつ、そんな考えはさっぱり捨ててですな、そこにちっぽけな部屋でも考えてみたらどうです。田舎の風呂場みたいな煤だらけの部屋で、四方の壁には蜘蛛が巣を張っている。で、これこそが永遠だ、というわけです。私はね、よくそんなものを目にうかべるんですよ」
「いったいもうすこしはましなものを想像できないんですか、いくらかでも救いのある、まっとうなものを!」病的な感情につき動かされて、ラスコーリニコフは声を高めた。
「まっとうなもの? だって、これこそまっとうそのものかもしれんじゃないですか、それに、私はわざとでもそうしたいんですよ!」スヴィドリガイロフは、曖昧な微笑をうかべながら答えた。

(ドストエフスキー『罪と罰』江川卓訳)


彼=Aスヴィドリガイロフですね。「それよりひとつ、そんな考えはさっぱり捨ててですな、そこにちっぽけな部屋でも考えてみたらどうです」という踏み切りようはどうです? これがテッド・チャンにも通じています。そして、チャン自身も言及しているようですが、『あなたの人生の物語』の世界へと通じている『スローターハウス5』(この作品が、たしかに『あなたの人生の物語』を読みながら思い浮かびました)の作者ヴォネガットをまた引用しますが、

「きみたちが出発してから、なにが起こった?」
「なにかのまちがいが起きた」と宇宙のさすらいびとはいった。まるで、打ちつづいた不運が彼自身の責任であるかのような、すまなそうな口ぶりだった。「いろいろなことで、まちがいが起きた」
「きみはこういう可能性を考えてみなかったのかね?」とラムファード。「なにもかもが絶対的にまちがいなく運んだのだ、と?」
「いや」宇宙のさすらいびとは簡潔に答えた。そんな発想に彼はぎくりともしなかったし、またぎくりとするはずもなかった──なぜなら、いま示された発想は、彼の安普請の哲学では手の届かない領域にあったからだ。

(『タイタンの妖女』浅倉久志訳)


「そんな発想」ですね。ここでは、宇宙のさすらいびとには理解できなかったにしても、これまでの出来事をすべてを知っている読者には、これがどんなに残酷な発想であるかわかっているわけです。

それで、「そんな発想」の底にはなにがあるかというと、自分がこの世界のなかで生きていくための基盤というか核というか理由というか、そういうものをなにかとか誰かとかに置く・依存するという人間の事情があるわけなんですね。その基盤というかなんというかがあればこそ、「いったいもうすこしはましなものを想像できないんですか、いくらかでも救いのある、まっとうなものを!」なんてことがいえるんですし、異常な事態にも「まさか──」なんていっていられるわけです。そして、「たったいま、わたしは数学の大部分が誤謬であることを証明してしまったのよ。数学はもう無意味になった」といってレネーが苦しむのは、その基盤というかなんというかが壊れてしまったから。ということは、それまでずっとその基盤をよりどころとしていたからなんですね。スヴィドリガイロフだってそうです。「まっとうなもの? だって、これこそまっとうそのものかもしれんじゃないですか、それに、私はわざとでもそうしたいんですよ!」という彼のことばには、裏切られた者の恨みと強情があると思います。この世界はずっと自分の信じてきたようなものじゃなかった、自分は裏切られた、だまされていたんだ、もうこのうえは……ということが彼にはあると思います。「きみはこういう可能性を考えてみなかったのかね? なにもかもが絶対的にまちがいなく運んだのだ、と?」といったラムファードがほんとうに希求しているのは、なにもかもが偶然だった、まちがいだった、ということの方です。しかし、裏切られた彼はそんなふうに自分が望むのをもはや許せないんですね。この世界から(あるいは「神」といってもいいし、また「愛」といってもいいかもしれません)裏切られた感じ、不当な扱いを受けている感じがあって、そこからなにも信じない、できるだけ自分が嫌だと思うような方向へ突っ走る、そういう人物を描いた作品は他にもまだまだたくさんありますね。これもまたまた繰り返しですが、

そのときになってよし天に坐す神とすべての天使達とが彼に救いの手を差し延べて彼をそこから救い出そうとしても、彼はもはやそれを断じて受け入れようとはしない。いまとなってはもう遅すぎるのである。以前だったら彼はこの苦悩を脱れるためにはどんなものでも喜んで捧げたであろう、だのにその頃彼は待たされていた、──いまとなってはもう遅いのだ、いまは、いまは、彼はむしろあらゆるものに向って狂暴になりたいのである、彼は全世界から不当な取扱いを受けている人間のままでいたいのだ。だからしていまはかえって彼が自分の苦悩を手もとにもっていて誰もそれを彼から奪い去らないということこそが彼には大切なのである、──それでないと彼が正しいということの証拠もないし、またそのことを自分に納得させることもできない。
(キェルケゴール『死に至る病』斎藤信治訳)


ついでながら、こういう問題を考えていたある作家は、裏切られたと感じていながらも、ひねくれずに善戦しつづける態度を書くことにもなりました。
それはこんなふうです。
「なぜ、あなた自身は、そんなに献身的にやるんですか、神を信じていないといわれるのに?」という問いに対して、医師はこうこたえます。自分がこの仕事をはじめて、

「……そうして、やがて、死ぬところを見なければならなかった。知っていますか、どうしても死にたがらない人たちがあることを? 聞いたことがありますか── 一人の女が死のうとする瞬間に《いや、いや、死ぬのはいや!》と叫ぶ声を? 僕は聞いたんです。そうして、自分はそういうことに慣れっこにはなれないと、そのとき気がついたんです。僕は、そのころ若かったし、自分の嫌悪は世界の秩序そのものに向けられていると思っていました。その後、僕ももっと謙譲な気持になりました。ただしかし、僕は相変らず、死ぬところを見ることには慣れっこになれないんです。僕はそれ以上はなんにも知りません。しかし、結局……」
リウーは口をつぐみ、ふたたび腰を下ろした。彼は口のなかがからからになっているのを感じた。
「結局?」
「結局……」と、医師は言葉を続け、そして、なおためらいながら、じいっとタルーの顔を見つめた。「これは、あなたのような人には理解できることではないかと思うのですがね、とにかく、この世の秩序が死の掟に支配されている以上は、おそらく神にとって、人々が自分を信じてくれないほうがいいかもしれないんです。そうしてあらんかぎりの力で死と戦ったほうがいいんです。神が黙している天上の世界に眼を向けたりしないで」
「なるほど」と、タルーはうなずいた。「いわれる意味はわかります。しかし、あなたの勝利はつねに一時的なものですね。ただそれだけですよ」
リウーは暗い気持になったようであった。
「つねにね、それは知っています。それだからって、戦いをやめる理由にはなりません」
「たしかに、理由にはなりません。しかし、そうなると僕は考えてみたくなるんですがね、このペストがあなたにとってはたしてどういうものになるか」
「ええ、そうです」と、リウーはいった。「際限なく続く敗北です」

(カミュ『ペスト』宮崎嶺雄訳)


ともあれ、この短編集『あなたの人生の物語』を書いたテッド・チャンは上のような恨み節の仕組みをよく知っている作家のひとりだといいたいのではなくて、「もうここは地上の一部ではない」ということの危険と、それをうけとめることの覚悟と、おそらくはそれにともなう孤独を描きながらも、この世界のとらえかたにはまだべつの可能性があって、それを探求していくことに積極的な希望を抱いているように思われるということをいいたいんです。ニヒリズムによらずに、世界をべつなふうにとらえ記述していくやりかたがあるだろうと考えているのじゃないかと思えるんですね。もしいまこの世界が不幸だとしたら、それは世界をとらえるいまのやりかたがまちがっているためだとでもいうように。しかし、わかりません。彼が長いものを書いてくれれば、それがどうなのかもっとわかってくるでしょうが。でも、いまのところ、つまりこの短編集は全体にいうと、すばらしい、とてもすばらしいけれど、そのすばらしさは読者を冷たくつき離すようなところにあるような気がします。いったい「もうここは地上の一部ではない」の後で、小説が成り立つのかどうかわかりません。「もうここは地上の一部ではない」の後を描くとしても、結局「地上」との対比を用いることしかできないのじゃないのか、という気がします。つまり、この地上に暮らしながら、「もうここは地上の一部ではない」という認識をもってしまった人間とそうでない人間ということでしか書けないのじゃないか、ということなんですが。ドストエフスキーは「大地から」離れてしまった登場人物をみな自滅させてしまわなくてはならなかったんですが、そうでない書きかたというのがあるのかどうか、わかりません。……とここまで書いてこの短編集の最後の作品『顔の美醜について』を思い出しました。ちょっと引用しますが──

うーん、よくわかんない。あたしの両親の時代には、こんなことまだ問題じゃなかったのかも。だけど、いまのあたしたちはそれに取り組むしかないんだしね。







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──番外──
『フランスの遺言書』
『フォー・レターズ・オブ・ラブ』
『魔羅の肖像』

さて、まずは先月のつづきを少し。

『三位一体の神話』の大西巨人もしばしば引用するトーマス・マンですが、最近私は彼の『ファウストゥス博士』をところどころ読み返していまして、この本がいつもそばにあるんですね。で、先日偶然開いたページにこういうことが書かれていて、この作品全体の通読したのはおそらく三回なんですが、初めてこの部分の切実さに気づいて感動したんですね(ということは、この次通読する機会があればますます深くこの作品を楽しむことができそうだということでもあります。それほどの作品はそうそうないと思います)。その部分とは、

わたしは一度「しばらく真面目になってみてはいかがでしょう」と提案した、真理は、苦い真理ですら、間接的にではあるが長い間には、真理の犠牲において共同体に奉仕しようとする思想よりも、共同体にとって役立つのであって、真理を否定する思想は実際には真の共同体の根柢を内側からこの上なく無気味に崩壊させるのだから、共同体の危機を深く憂慮する思想家は、共同体ではなく、真理を目標とした方がよいのではなかろうかということを、しばらく真面目に考えてみようと言ったのである。しかし、わたしは生涯においてこれほど完全になんの反響もなく黙殺された言葉を言ったことがない。(円子修平訳)

そこで私の思い浮かべたのは、大西巨人の次の文章で、

「戦争の行なわれる最中にも戦争のために戸惑いをすることなく永遠の問題を考えつづける精神が存在するのを、私は望んでいる。そのような人々がいまはあまりに少ないのではないか、と私は恐れる。戦争が世界に充満している時代ゆえに、われわれの日常の思考も、戦争と切り離されないが、それに眩惑されて事物の本質を見あやまってはならない、と私は思う。」
(『三位一体の神話』)

そんなふうにいえば、まだ連想の働くべつの作品もあって、

「あんたは日本の国が戦争に負けてもかなしくないのか?」
旦那はすこし出っ歯で、その出っ歯を、はじめて見るように、ぼくは見ていた。
「負けてうれしい、ってことはない」
「そうだろ。それなのに、なぜ、あんたはハッピイなんだ」
旦那が手首をはなしてくれたので、ぼくはうしろにさがった。
「いや、これはコトバの問題だよ。うれしけりゃ、負けたってことにならない。悲しいから、負けたんだ。しかし、ぼくは戦争がおわったとき、ほっとした。うれしかったんじゃないかな。内地にかえれるしさ。軍隊はきらいだしね」
「ふん。いつか、あんたは、妹が爆撃で死んだって言ってたな」
ぼくの妹は広島のミッション・スクールの生徒で、陸軍の被服廠に勤労動員にいっていて、原子爆弾で死んだ。
「妹がバクダンでやられて、口惜しくないのかい?」
「妹のことはカンケイない」
「いや、関係がある。敵に爆撃されて死んだんだ、それでもあんたはハッピイなのか?」
旦那の出っ歯がひっこみ、ぼくが返事をしないと、ため息をついた。「あんた、祖国ってものを考えたことがあるのかい?」ツバをはくかわりのため息みたいだった。「考えてないんだなあ」

(田中小実昌『ミミのこと』<『香具師の旅』所収>)

最後の連想ははじめのふたつとの結びつきが異なりはしますが、私の頭はその全部をひっくるめた立場というものを考えようとしています。

というふうに、過去に読んだ作品が結びあいます。これはまた、この先読むことにする本とも結びます。
『トゥルーマン・ショー』──「大審問官」(『カラマーゾフの兄弟』)──『タイタンの妖女』の結びつきをしばらく前のこのコーナーで書きもしました。

『トゥルーマン・ショー』といえば、あの映画でかかる印象的な音楽のいくつかがフィリップ・グラスによるべつの映画音楽からの引用で、そのひとつが『ポワカッツィ』という映画のものなんですね。曲が気に入ったので、私はそのCDを買い求めます。『ポワカッツィ』は『カッツィ』三部作(一作めは『コヤニスカッツィ』、三作めは『ナコイカッツィ』)の二作めで、三部作すべてのCDを私は聴くことになります。さらにDVDで三作ともを観るわけです。

前に書いたことですが、この一連の作品を今年追いかけたのは、昨年観た映画『フィアレス』からはじまっています。

『フィアレス』からピーター・ウィアー監督作品へ。
そこから『トゥルーマン・ショー』へ。
『トゥルーマン・ショー』からジム・キャリー主演作へ。そうして『マン・オン・ザ・ムーン』へ。
『トゥルーマン・ショー』からフィリップ・グラス作品へ。そうして『カッツィ』三部作へ。

さかのぼれば、
『トゥルーマン・ショー』から『タイタンの妖女』(『カッツィ』三部作の世界観はヴォネガットに通じるものがあると思います)へ。村上春樹の『沈黙』、『海辺のカフカ』(フィリップ・グラスの作品には『浜辺のアインシュタイン』があります)へ。『カラマーゾフの兄弟』へ。『エンゼル・ハート』へ。『エンゼル・ハート』と『カラマーゾフの兄弟』と『ファウストゥス博士』とには共通点があり、それぞれ登場人物が悪魔と対話するんですね。それと、これはだいぶ以前に書きましたが、『ファウストゥス博士』の主人公(作曲家です)のモデルのひとりにニーチェがいます。

非常にもたもた・ぐずぐずしながら、こうした作品群を読んだり、観たり、聴いたりしてきました。読みたい本が古い本であり、すでに絶版でもあり、古書店で手に入れなくてはならなかったりします。世のなかには出てくる新刊をどんどん追いかけていくひとも多いと思いますが、とてもそんな気にはなれないんですね(ただ、翻訳物は気になりますけれど。日本人作家で私が新作をすぐに読むことにしているのは、いまは保坂和志さんだけですね)。買ってあって、まだ読んでいない本が自宅には山のようにあります。けれど、新刊のなかには大昔の本の新たな文庫化というのもまじっていて、最近ではヘルマン・ブロッホの『夢遊の人々』が出まして、これはもう読むことはできないものとあきらめていた作品だったんです。

それでも比較的新しい翻訳物を最近読みましたが、

「答えなど信用してはいかん、そうありたいと願った言葉などけっして出ては来ない、そう思わんかね?」

なんていう訳が出てくると、もうだめです(最後まで読みましたけれど)。「そうありたいと願った言葉」はおかしい。「そうありたいと願った」のは誰か? 話者か? 質問者か? しかし、ここは後者なんでしょう。そして、質問者の期待する通りの答えなど出て来ないということでしょうが、すくなくとも「こうであってほしいと願った言葉」、古めかしくいえば「かくあれかしという言葉」、あるいはまた単純に「きみのききたい言葉」、「きみの望んだ言葉」、「期待通りの言葉」、「お望みの言葉」……。なんというか、全体に訳の日本語が杜撰だという印象が最初から最後までありました。

さて、それで、これから雑誌『文藝』の秋号(7月刊。いまは冬号が出ています)に載せた文章をここに出すことにします。これは書店員がPOPをつけて特に推したいと考えている3作品について、各700字程度の文章を書き、そこへの前ふりとして「POPと私」という感じの文章をやはり同じ字数で書くというもので、文芸誌で書店員にそこまでページを割いていいものかというほどの企画です。私が書いたのはその2回め。いま出ている冬号にもうこのコーナーがないので、もしかするとこの企画は2回で頓挫してしまったのかもしれません。





 そもそも私がPOPを書きはじめたのは、ベストセラーを中心とした本の読まれかたへの反感もあってのことだった(にもかかわらず、自分の書いたPOPの関わった本がベストセラー入りしたというのは皮肉なものだが)。いったい、広告も誇らしげな「一〇〇万部突破!」を歓迎できるか? 一〇〇万人がいっせいに同じ本を読むなどというのは異常な・おかしな・ばかげたことではないだろうか。他にもっと読まれていいはずの、埋もれている本がたくさんある。また、誰にも自分に──もしかすると自分ひとりだけに──にぴったりくる本があるはずなのだ。「他の誰にもわかってもらえない、それどころか嫌な顔をされたりするような、そういうあなただけの疑問や考えというのは、もちろんあっていい」と私は『<子ども>のための哲学』(永井均)のPOPに書いているのだが、「自分だけの本」(それは自分だけの感動であって、周囲とお揃いの都合のいい涙なんかではない)というのがあっていいし、そういう本を持たないひとはいつまでも自分で本を選ぶことができないだろう。
 POPは、書店店頭で、いまの主流ではないべつの読書モデルを提出するにすぎない。発行から時間のたってしまった本、読者に背伸びを強いる本(背伸びなしの読書をつづけていても「自分だけの本」に出会うことはない)の負のイメージを軽減し、読書の選択肢を増やす、少なくとも実物を手に取って立ち読みしてもらうために書く。そのページを指定もする。真剣ささえ伝われば、POPの書き手によるコピーの秀逸さなど本当はどうでもいい。いちばん重要なのは、本の重さや厚みごと作品の文章にじかに触れてもらうことだ(そして、多くの書評で私が不思議に思うのは、本文からの引用がほとんどないことだ)。




フランスの遺言書

アンドレイ・マキーヌ 星埜守之 訳
水声社 2600円+税

 二〇〇〇年からこちら、これ以上の翻訳作品に出会っていない。これまでに私は四回読み、四回めも感嘆して読み終えた。発売以来五年間一度も切らさず店に平積みし、何度もPOPを書きかえている。いつもうまく書けない。
 ロシア革命の混乱期からずっと、二〇世紀のほとんどを、この広大な国に閉じ込められてしまったままのフランス女。彼女が「ぼく」の「祖母」シャルロット。この魅力的な女性を「お婆さん」として思い浮かべることはできない。「ぼく」の語る彼女はいつまでも、たくさんの危機をくぐりぬけてきた、若いときのままのすがすがしさを維持していて、読んでいると、めくってゆくページに彼女が現れるたびに、なにか美しい音楽が聴こえてくるような感じがする。
 ソヴィエト生まれの「ぼく」に「接ぎ木」されるフランス。彼女のフランス語で考えると自然に思われる同じことがらが、ソヴィエトのロシア語で考えようとすると、異様に響いてくる──そういう発見を「ぼく」は重ねていく。「彼女のフランス」への憧れが言葉・想像力・自由・文学などの問題に結んでいく。といっても、芯の強い、ていねいな美しい文章で。POPに指定した立ち読みページは、数年ぶりの夫婦再会の場面。「けれども彼はずっと遠くのほうにあらわれて、そしてそれが少しずつ夫の顔になっていった。妻はそのあいだ、ひとりの男のシルエットのせいで通りが見知らぬ道に変わってしまうのに目を馴らしてゆきながら、男がぼんやりとした微笑みを浮かべているのにもう気づいていた。ふたりは駆け寄りもしなかったし、言葉も、抱擁も、交わしはしなかった。お互いに向かって、永遠に歩きつづけてきたように思えたのだ。」
 この読書体験に定価二七三〇円(税込)はけして高くない。




フォー・レターズ・オブ・ラブ

ニール・ウィリアムズ
石川園枝 訳
アーティストハウス1400円+税

 二〇〇一年発行。廉価の「新装版」が出たばかり。旧版の売れ行きの悪さにもかかわらず、出版社が「新装版」に踏み切った根拠のひとつに私の勤める店での数字がある。二年半で約一二〇冊の売上。ずっとPOPをつけて平積みにしつづけた。小さな数字だが、同じ結果を百軒の書店が出せば、何度かの増刷ができたはずだった……。「新装版」の帯には私のPOPからの引用もある。
 「FOUR LETTERS OF LOVE」。四通の愛の手紙。LOVEの四文字。この作品を建造物にたとえると、建材が通常のものとは異なるために工法もまた特殊なものになった、という印象を受けた。つまりは文体が成功しているということだ。そして、この成功は当の作者自身にも今後容易に超えることのできないほどのものではないかと思った。しかもデビュー作。
 立ち読み部分──冒頭の二ページ──は「ぼくが十二歳のときに、父さんは初めて神様の声を聞いた。」という書き出しと、その父親が寒中水泳をする姿。「からの衣装ケースのなかでからみ合った針金のハンガーみたいなあばら骨と肩をした父さんは、凍えるような寒さに爪先を丸め、両腕を体から離して歩いているので、両手に見えない鞄を持っているみたいに見えた。」
 この作品をあからさまな愛の賛歌として読み終えるひとの多いことは予想できる。しかし、作者は「神様」とか「愛」などというものをまともに語りだせば笑われてしまうことを十分に承知した上で、周到にこの物語世界を構築している。これはとても大事なことだ。若い主人公たちの「愛」の行方よりも、彼らの生きる「世界」を描ききることの方に作品の成否がかかっている。そして、この作品の全体はその「世界」へ向けてのラブレターになっていると思う。




魔羅の肖像

松沢呉一
新潮OH!文庫 771円+税

 この本も二〇〇〇年の発売時からずっとPOPをつけ、平積みにしてきた。
 先に触れた「他の誰にもわかってもらえない、それどころか嫌な顔をされたりするような、そういうあなただけの疑問や考えというのは、もちろんあっていい」というPOPを書きながら、私の思い浮かべていた何人かのひとりがこの『魔羅の肖像』の著者松沢さんだ。この本は彼のたたかいの記録である。
 「「いいチンポ・悪いチンポ」があるのかないのかを探し求めて幾千里」の松沢さんは他の誰かに気をつかって口をつぐんだりしない。あくまで真実を追求していく。たとえば、挿入された芝居調の部分──ここはそれまで提起された問題点の整理・まとめの役を見事にはたしている──を読んでほしい。「医者:ええい、忌ま忌ましい、そんな愛のない女と付き合うお前が悪い。愛さえあれば、女はそんなものを気にしないのだ。/患者:愛はありました。愛しているけど、チンポが小さい≠チて言われたんです。/(看護婦鈴木、遠くを見る目をして呟く)/鈴木:愛で乗り越えられるものと、乗り越えられないものがあるのよ。それに、いいチンポだと、愛がなくても楽しめるのよねえ。」
 問題を隠すな目をそらすな他のものと混同するなすり替えるな。これが松沢さんの一貫した態度で、「チンポ」の真実を追求することが、それを隠蔽する大きなものとの数知れぬたたかいになる。こちらは爆笑しつつ読みながらも、彼の嗅覚や思考、また方法、あるいは怒りや情熱に感動する。その一方で、発表の場を転々とし、読者のあまりの少なさに、しばしば消沈して嘆く松沢さんの姿もある。小説ではないが、悪漢小説「魔羅をめぐる松沢呉一の冒険」というふうにも読めるほど、著者自身の声にあふれている。痛快な一冊。







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6ステイン

福井晴敏

講談社 1700円+税

福井晴敏の描く《Twelve Y.O.シリーズ》、別名《市ヶ谷三部作》の番外編。

6つの短編から構成されています。今まで長編が多かった著者ですが、私の好きな福井作品の特徴である“人物描写の厚み”という部分は短編になってもしっかり描かれていました。
『Twelve Y.O.』の平曹長や『亡国のイージス』の仙石先任伍長のような、味のある親父キャラの描き方が特に私はお気に入りなのですが、今回の作品にはもっとユニークな登場人物が出てきます。

第二話の『畳算』に出てくる牧野久江。若かりし頃は美しい芸子であり、年を経た今はしなびた旅館の強欲ばあさん。しかし…。『畳算』はなかなか渋くて良いですよ。牧野久江と市ヶ谷から出張してきた堤との会話なんかのシーンは読んでいて、頭に映像が浮かぶようでした。

第五話の『断ち切る』なんかもっと変わった人物が出てきます。椛山為一。嫁にいびられながらもかわいい孫を持つ老人。実は元スリで逮捕歴あり。この老人が主役です。第五話は第四話『媽媽』との連作になっています。全六話の中で私が一番好きなストーリーでした。

そして第六話『920を待ちながら』あえて書きませんが“あの男”が出てきます。ストーリー(オペレーション)も少し込み入っていて、ボヤーっと読んでいると「?」ってことになりますよ。で、この第六羽に〔結城〕という人物が登場します。いえ登場するといっても過去の人物としてストーリーに出てくるのですが、すごく気になる登場の仕方なんですよね。なんか、こう際立っているというか、単純なストーリーの味付け程度の雰囲気ではないんです。いつかこの〔結城〕なる人物の話を読んでみたいと思いました。

まだ福井作品を読んでないって方には、この本よりまず『Twelve Y.O.』から読んでいただきたいんです。某サイトの書店のオススメでは「福井作品の入門書といっても良い」なんて書いてありましたけど、そんなことないです。確かに『亡国のイージス』なんて上下巻だし、分厚いですから、読むのに尻込みするかもしれませんが、大丈夫!面白いですから。絶対読んで損はしませんよ。「6ステイン」だって、『twelve Y.O.』『亡国のイージス』『川の深さは』と進んでから読んだほうが“面白さ”がぜんぜん違いますから。


よく出版社が、“この本はちょっと力 入ってます!”って本を出すときは(特に大手出版社になるほど)書籍と共に印刷されたPOPやポスターが送られてきますが、この『6ステイン』もそうでした。送られてきたPOPには著者である福井氏の写真と共に「ね、短編だって書けるんです」の文字が…。誰かに言われたんですかね、「福井の本は面白いんだけど、分厚くて重くてストーリー長い」って。面白きゃ良いと思うんですけどね、長くたって。福井作品(『月に繭 地には果実』以外は)実際に面白いんですから。






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フォックス先生の
犬マッサージ

Dr.マイケル・W・フォックス 山田雅久 訳

洋泉社 1500円+税

著者のフォックス先生は1970年オオカミの行動について研究をしていました。ある日研究用に飼っていた1匹のオオカミがジステンバーにかかり、脳に炎症を起こしてしまい、病状は重く、一生懸命治療しても回復の兆しは見えなかったそうです。こんなときは普通、安らかに死なせてあげるものだと本には書いてありますが、フォックス先生はそれを拒みマッサージをしてみようと決心したそうです。そのオオカミはメスでした。彼女の反応に細心の注意を払いながら、ゆっくりとやさしくマッサージを始めました。最初はなでる程度でしたが、けいれんを起こす首と頭の周りの筋肉をマッサージしてあげると、彼女はリラックスして気持ちよさそうに眠りについたそうです。それから、手足や背中も含め毎日定期的にマッサージを続けました。その結果、若干の後遺症が残ったものの、普通に生活できる程まで回復したそうです。しかも彼女は数ヶ月後に子供まで産み、8年間も元気に暮らしました。それからフォックス先生は多くの犬や猫にマッサージによる治療を行い、生きる力や回復力の衰え、老化による関節やねんざ、外科手術や骨折のリハビリなど、マッサージがペットの健康を維持し治療するうえで画期的な方法であることを確信したそうです。

第一章 どうしてイヌにマッサージが必要なの?

なぜイヌにマッサージが必要なのでしょう?・野生動物を家で飼うことの代償・イヌの体調をもっとよく知るために・マッサージはイヌの回復力をアップさせる・触れ合うことでペットとの距離を縮める・飼い主にもイヌにも大切な触れ合い

第二章 知っておきたいイヌの体

マッサージをする前に・まずはマッサージを体験してみましょう・お互いリラックスすることが効果をあげる・心を反映するマッサージ・イヌとの深いきずながプラセボ効果を上げる・イヌのボディランゲージを理解する・イヌの気持ちがもっとわかるようにあるために・イヌの匂いにも敏感に

第三章 イヌにマッサージしてみましょう

マッサージの基本的な流れとテクニック・マッサージのときの手の動き・触診で病気のサインを見つける(リラックスする・背中・頭と首・肩と前足・胸とおなか・お尻と後ろ足)・マッサージを習慣にするために

第四章 治療のためのマッサージ

治療マッサージとは?・一般的な治療マッサージ・ねんさなどには部分マッサージ・愛情を込めて気功マッサージ・イヌのヘルスケア・健康診断カルテ






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ねずみのえんそく
もぐらのえんそく


作・絵 藤本四郎

ひさかたチャイルド 1000円+税

今回は、冬におススメするのは遅いかなという気もするのですが、年末に子供と一緒に読んで、今年をふりかえるのも楽しいかなと思い、あえておススメします。
我が家の娘も今年から幼稚園に通っており、2学期は初めての体験の連続で楽しそうにいろいろ教えてくれます。
娘が、遠足や、おいも掘り、大根抜きといったことを、読みながらいっぱい教えてくれるのが、この絵本です。

ねずみえんともぐらえんのいもほりえんそくのおはなしで、土の上ではねずみさん達が、土の中ではもぐらさん達が遠足にでかけます。途中でへびやかめ、たぬきなどに出会ったりして、同じおいもほりにたどりつき、土の中と外から“おーえす おーえす”とおいもほり。
“すっぽーん”とおいもがぬけてねずみさんともぐらさんが“こんにちは”。最後はなかよくみんなでおいもを食べました。

この絵本を読んであげると、娘は
“〜へ遠足へ行った”
“〜を〜で見たよ”とか、
“こーんなおっきなおいもがいっぱいとれた”
“いっしょに食べたね”と
楽しい想い出をいっぱい話してくれます。
小さい子供のいるお父さん、休みの日にゆっくり絵本を読んであげて子供の話を聞いてあげるのは楽しいもんですよ!






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電車男

中野独人

新潮社 1300円+税

    ウソの様なホントの話

先月の発売から各書店の売上ランキング上位に登場し、いまだその位置を維持し続けている本書…キャッチフレーズは【今世紀最強の純愛物語】との事でしたので、私も試しに読んでみるべく購入しました。

感想…_| ̄|〇

正直、感動と言うよりも笑わせてもらいました。なまじ【2ちゃんねる系】の掲示板やチャットの様子を知っているだけに、内容的には凄く良い話の筈が、臨場感ありすぎて感動する暇も無く後半はAAに笑わされっぱなしでした…他のスタッフが読んだらもうちょっと良い意見が出たんだろうけどなぁ;;

お話の流れとしては、冴えないオタクの青年が電車内で酔っ払いに絡まれた女性を助けて交際が始まり、やがて恋人になるまでの物語な訳なのですが…

  今回のオススメ度 ★★★★☆(確かに良い話なのですが、読んだ人間が悪かったのかも…電車男とエルメスのやりとりに感動するよりも、それを支える【その他大勢】のリアクションに笑いっぱなし…)






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思い出に残る食事

西村博之 編

バジリコ 1300円+税

貴方の【忘れられない一品】は?
【2ちゃんねる】繋がりでもう一冊。

正直、原口としてはこちらの方が素直に感動出来ました。

【電車男】の様に、掲示板の書き方そのままの横書き表記にしなかった事が、良かったのもあるのでしょうが、投稿された方々の、短い文章ではあるけれど【心の中に残る大切な食の思い出】が切々と語られていて、中には思わず涙する内容も…。

【電車男】を読んで物足りないと感じた方、こちらは如何でしょうか?

  今回のオススメ度 ★★★★☆(同出版社の【忘れられないラブ】、コアマガジン刊【泣ける2ちゃんねる】もお勧め。現在パソコン書籍コーナーにて【2ちゃんねる祭り】を開催中ですので、是非手に取ってみて下さい)







≪一冊入魂≫

第36回 『OZ完全収録版』




なぜ今『OZ』なのだろう…
 
 1990年、ひとつのマンガが単行本化されました。それは樹なつみ先生の描く『OZ』という近未来SF作品でした。

 お恥ずかしい話ですが、わたしがこの作品に触れたのはこの仕事に就いて2年後の1996年のことでした。当時いろいろな作品を読み漁っていたときでして、知人の薦めで読んだのですが、その魅力溢れる設定やキャラクター、そしてストーリーに圧倒されてしまったのでした。その後樹先生の作品にのめりこみ、『花咲ける青少年』『朱鷺色三角形』など全作品を次々と読破しまして、現在も『デーモン聖典』の新刊を心待ちにしている状態です。
 
 そんな思い入れのある作品が突然『メロディ』という雑誌で読切2編で突然の復活をしました。そのときに思ったのがはじめの言葉でした。でもよくよく考えるとその答えは意外に難しいものではないのかもしれないと気付きました。

 現在は『OZ』が初めて単行本になってから14年経っています。その間に日々世界情勢や科学の進歩に大きな変化が起こっています。そう考えていくと『OZ』で描かれていた世界もそれほど遠く、フィクションの範疇とはいえなくなっているのではないだろうか?と思うのです。

 まあ前置きはさておき、わたしを1作で虜にしてしまったこの作品、完全収録版として甦ったのを記念して(?)今回紹介したいと思います。いつもよりテンションが上がっているかもしれませんがその辺はご容赦を…



OZ完全収録版

樹なつみ

白泉社 全5巻予定 第1巻590円+税
 まずは簡単な作品紹介から。

 1990年第3次大戦勃発。最初の核ミサイルの爆発から40分後この大戦は終了する。最初の一発が誤爆と確認されたものの、その数分後米ソ両首脳は水蒸気と化していたのだ。全世界の軍事基地、主要都市、産業施設はほぼ消滅、数日後『核の冬』は静かに地球をおおっていき、穀物は完全に枯死、人間も多くの命を落としていった。

 そのような壊滅的な状況下でそれぞれの地域で住民達による立国宣言が相次いだ。アメリカも大きく6つに分裂、認可されていない少数民族国家、ゲリラ制圧地区を加えると20数ヶ国に分裂した。そしてその国同士で内乱が勃発、かくて地球規模の戦国時代が到来したのだった…


 前述の通り、この作品は1990年に単行本化され発売された作品です。この作品が描かれた当時、米ソの冷戦が続いていた時代。日頃から核戦争という言葉を耳にしていた時代です。そんな当時の状況下で描かれたこの『OZ』という作品は十分にこのような状況になりうるものでした。

 14年経った現在、第3次大戦は起こらなかったものの、今もどこかで紛争が続いているのは皆さんも承知のはず。そのスケールがただ大きいか小さいかの違いでしかないのです。そういった意味ではこの作品の世界観というのはあながち遠くかけ離れた世界のものではなく、ひょっとするとごく近い未来、例えば明日にも起こりうるのではないでしょうか…

 ここはサンレイトの国境近くの街・サバナ市。そこにひとりの少女を乗せたヘリが降り立つ。彼女の名はフィリシア・エスプタイン。サンレイト共和国屈指の名門エスプタイン家次女で工学博士。この地に訪れている叔父に会いにきたのだ。出迎えられた彼女が連れて行かれた士官室にはひとりの兵士が士官の椅子の上で眠りこけていた。彼は武藤一等軍曹。22歳の若さだがその能力が評判の雇われ傭兵。生まれた時から戦場にいて気がついたら闘っていた。この時代が生み出した落とし子のようなものだ。その彼に与えられた指令はフィリシアを護衛することだった。

 その夜、フィリシアは世話係の兵士に賄賂を送り叔父のいる場所に連れて行って欲しいと懇願する。出かけた街の酒場でひとり聞き込みをする彼女。そんな彼女に酒を飲み酔っぱらった私兵たちがからみだす。彼女を外に連れ出そうとした兵士の前に立ちはだかる影。武藤だった。

 その兵士を殴り倒し、彼女を基地へと連れ帰ろうとする。そのとき彼らを照らす1台のジープ。乗っていた兵士が彼女の叔父が亡くなったこと、そして1通の彼女宛の手紙があったことを告げる。手渡された手紙の最後にはこう書かれていた。

『そして“OZ”へ』

 そのとき急に街の郊外から爆発音が轟く!現場に近づくと、そこにはひとつのガラスケースが。そしてその中にはひとりの女性が納められたいたのだった…

、そこに納められていたのは人間ではなく、OZにいるフィリシアの兄・レオンの作った機械人間(サイバノイド)でした。なぜこの機械人間がここに送られてきたのか?そしてレオンの意図するものは?その一端はこのあとで紹介します。
超私的お気に入りエピソード

CHAPTER U

P.103〜182
 サンレイトの契約を反故にしてフィリシアと機械人間1019とOZに向かうことになった武藤。彼ら3人はOZとのコンタクト地点であるオデッサに向かうべく南下を続けていた…

 オデッサに着くまでの間にいろいろ面白い出来事が起こりますが、ここで書いてしまうと面白さ半減ですので敢えて思い切り割愛させてもらいます。

 オデッサ峡谷に到着した3人。そこで日没まで待つことにする。すると上空に1機のジェット機が。突然急降下し岩肌に激突、爆発炎上した機体の中から1つの人影が現れる。その顔は1019と同じ顔…1019と同じMJV型試作型で女性型の1021だった。

 彼女は1019に欠陥があると告げ、この場で廃棄処分する命令をレオンから受けてきたことを告げる。当惑し抵抗する1019。

『はなしなさい1019。おまえは処分される。私のボディに触るのはやめなさい。わたしのボディはより人間に近い―おまえなんかただのマシンのくせに――!!』

 絶叫虚しく破壊される1021。その姿を見て恐れるフィリシア。動揺が収まらない1019は武藤に襲い掛かリ彼の首を絞める。絶叫するフィリシア。そのときふと気付いたように呟く1019。

『脈動……血液が流れている…感じる―…』

『そうだ生きてる証拠だ…っ』

『私にはない。だからミステイクですか。欠陥品なのか。私は生きてない。では「私」とは何です。教えてください。』

『そんなの…っ人間だって…自分が何なのかわかっちゃいない…っ。生の意味なんか誰にも…っわからないんだ…っ。だけど――おれは生きていたい…っ。生きる為に毎日を…あがく。おまえだって―――そうだろうっ。違うかっ。』

『生きる―――』

『生きたいと願う精神がある限りそれは生命体だ…っ。やめろ…っ…19…!!』

 我にかえり武藤の首から手を話す1019。もたれかかる武藤を抱きしめながらこう呟くのだった。

『私は―――OZへ行きこのミステイクを訂正します。OZでバイオロイドの女性体を手に入れる。生きる為に―――』

 そして1019はOZの場所をフィリシアと武藤に告げるのだった。そこはユカタン半島、旧グァテマラのティカル。マヤ文明の遺跡のある場所だった…


 この後彼ら3人の過酷な旅が始まります。その先にある答えとはいったい?OZとはいったい?そして武藤とフィリシアが見たものとは?それはこの後毎月順次発売される続刊で!私のように既読の方も、今回の完全収録版は描き直しや設定集、そしてコミック未収録の短篇も収録されます。要必読ですよ!

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