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2004年11月
三位一体の神話(大西巨人)
超私的まんが道2≪一冊入魂≫
PLUTO(浦沢直樹+手塚治虫) .

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作家はそれが叶おうと叶うまいと、必ず大望をもって自己の作品に取り組まねばなりません。おたずねのような「野望」も、私の胸奥になくはないでしょう。
三位一体の神話

大西巨人

光文社文庫 上・下巻 各686円+税



ちょっと長い前置きです。

今年も11月にもなり、この原稿を書こうとしながら、頻度こそ落ちはしていますが私はいまだDVDの『トゥルーマン・ショー』を引っぱり出し、いくつかの場面を観なおしています。この作品を初めて観たのが今年のはじめだということはしばらく前に書きました。あのときはもっぱら『タイタンの妖女』への連想ということで書いたわけです。しかし、もちろん他にもいろんなことを考えていまして、そのひとつがまたこれも映画(これも原作より映画の方が優れていました)でアラン・パーカーの『エンゼル・ハート』なんですね。『トゥルーマン・ショー』と『エンゼル・ハート』には共通する主題がある。ふたつの作品には登場する人物に一種全知の存在がいて、主人公の生活を操っているわけです。そして、主人公は自分が誰なのかどういう存在なのかを知っていくことで危機を迎えます。私は両作品ともすばらしいと思い、好きではあるんですが、しかし一方で、なんとない小ささを感じ、もの足りなく思いもするんですね。このことはずっと私のなかに引っかかりつづけています。いまここでの比較がなぜ『エンゼル・ハート』とであって、『タイタンの妖女』とではないのか、という疑問も自覚はしていますが、どうも『タイタンの妖女』とではないんですね。なぜだろう。おそらくいま問題にしている映画2作はそれぞれ主人公ひとりだけを描くことに専念し、そこに観客の関心を集め、単純化し、感情移入させやすくしているのに対し、『タイタンの妖女』はたくさんの人物の声を導入し、もっと大きいものを描いているということが関係しているだろうと思います。『タイタンの妖女』を読んで感激したひとは、ただ主人公ひとりの運命についてだけそうなったというのじゃないはずだと思います。そうして、2作の映画はとりわけ人工臭が強く、どちらかというと頭でっかちの印象が否めず、そのために最後へ向かっての「まとめ」に入りすぎているのではないかと思うんです。それがなんとない小ささを感じさせるんですね。もちろん、作品それ自体としてはいいんですけれども。いや、作品はいい。ただ、そもそもはじめからゴールが決定されてしまっていて、設計図をはみ出ることがないということなんです。なんというか、その設計図にどう観客を乗せていくかということに専ら力が注がれるのかもしれません。というと、こういうつくりはまた多くのミステリ小説にもいえることで、事件の解決がつまりは「まとめ」になっていて、その「まとめ」のせいで、せっかく活きてきた作品のべつの要素が「まとめ」のレヴェルに引き下げられてしまうと感じることが少なくありません。はじめに提出された謎を全部解決してみせなくてはいけないものだろうかと疑問をおぼえます。……と、だんだんあやしくなってきました。

べつの例を考えてみますか?

いまここに、主人公にしか見えない白い犬の出てくる小説があったとします。そうするとですね、その白い犬というのは、いずれ他の登場人物にも見えることになるか、あるいは、最後まで見えないままで終わるしかないわけです。このどちらかだと思って読者はページをめくっていくことになるんです。またこの作品の外観がどうやら心ほのぼのとする印象を与えられていたとします。で、やっぱり他の人物たちにも白い犬が見えるようになるとします。そうすると、おそらく白い犬が出てきてよかったね、登場人物みんなが白い犬とお友だちになれるんだ、とそんな展開が予想されます。しかし、白い犬が他の人物たちに見えるようになる場面はどちらかというと不吉な、ぞっとする形容にちりばめられていて、その後も気味の悪い印象は消えず、主人公以外の誰もこの犬と仲よくなることができない、となれば作者はこの点ではよい仕事をしたわけですね。そのうえで、彼はその作品にべつのことを描くことができるようになります。

さて、私がここでなにがいいたいかというと、漠然とですが、こういうことです。読者にとって作品に触れるときの「感情移入」、「焦点」、「先行きの予測」とか、あるいは、そこから得られる「安心感」とか「娯楽」とかそういうものの結びつきです。

いったい作家というものは読者の読書レヴェルをどのあたりに設定しているものなのか。

というわけで前置きは以上です。やっぱりちょっと長かったですか。




さて、「今年のはじめ」に新刊『深淵』について書き、その作者の大作『神聖喜劇』を読む決心がついたとも書いた私ですが、ようやくそちらを読みはじめました。しかし、その前にもうすこし短い作品を読んで助走のようにしましたので、これを今回はご紹介します。『三位一体の神話』です。

主な登場人物の名前はそれぞれ、

尾瀬路迂(おせみちゆき)
尾瀬咲梨雅(おせえみりあ)
枷市和友(かまちかずとも)
葦阿胡右(いくまひさあき)


作品冒頭の文章はこうです。

その年・一九七五年、一つの殺人が行なわれた。それから七年後・一九八二年、別の一つの殺人が、行なわれた。もっとも、殺人は毎年かなりたくさん生ずるから、上記二件は、それだけなら、格別めずらしい事象でもなかった。
特徴的なのは、次ぎのような諸事情の存在であった。


「諸事情」はすぐ箇条書きで示されます。

読者による犯人探しの作品ではないので、もう書いてしまいますが、第一の殺人で殺されたのが作家の尾瀬路迂。自殺と思われていたこの第一の殺人の真相を七年後につかみかけていたところを殺されたのが編集者の枷市和友(尾瀬路迂の娘、咲梨雅の婚約者)。それが第二の殺人で、ともに犯人は尾瀬路迂に特別な意識を抱いていた作家の葦阿胡右。

それで、ですね、冒頭に挙げられた「諸事情」のなかには犯人が誰かということは書かれていないんですけれども、ふたつの殺人が同一犯人によるものだとは明言してあるんですね。で、ここを読んで、そして、しばらく読み進めながら、私の頭にあったのは、おそらくこれは犯人葦阿胡右が尾瀬路迂の娘、咲梨雅と枷市和友によって追いつめられ、復讐される話だろうということでした。それがどんなふうに描かれるかというと、咲梨雅と枷市和友とが事件の真相究明にかかりきりになり、読者はそんな彼らに感情移入し、応援することになり、そして復讐達成のあかつきには歓声があがり、読者の溜飲も下がるはずのものだろうと考えていたんです。そう考えていたというより、そうでない形を考えていなかったというのが正しいんですけれど。

で、どうだったか?

これは事件の解決が「まとめ」になってしまうような、そういう作品ではありません。読者を牽引していく最も大きい要素が、事件が解決に向かってどう進捗していくかということではあるかもしれません(これは途中で放り出せないくらいおもしろいんです)が、しかし、読み終えてみると、これは事件の解決などなくてもよかったという作品なんです。犯人は殺人について良心の呵責などおぼえませんし、彼を追う咲梨雅と枷市和友にしても恨みを語りません。彼らはそれぞれ仕事をしており、それぞれの生活があり、そのなかにたまたま彼らを結ぶ事件があるということです。ミステリ好きの読者は普段の読書のように快哉を叫んだりできません。この作品の中心は事件の解決とか復讐とかそういうことではないんです。というか、そういう見地からすると、まるで中心というものがないように思えるんですね。いや、事件が解決に向かう様はほんとに魅力的でぐんぐん引っ張られるように読めるんですよ。でも、読み終えてみると、それが中心であったわけじゃなかったんだと思えてくるんです。ややこしいですが、読んでもらえればわかります。

尾瀬路迂、尾瀬咲梨雅、枷市和友、葦阿胡右のそれぞれの人物が生きていて、たまたま彼らをある時期結んでいたものにふたつの殺人事件があった。事件の解決というよりも、彼らがそれぞれどのように生活していたか、どのような信念にもとづいて行動していたかをこの作品は描いています。

作者の描いたのは、登場人物各人の感情ではなく、態度なんですね。これは「感情」大好きの読者には信じられない作品なんです。そんなものがあるかどうかわかりませんが、もし「感情の作家」という作家があるとしたら、大西巨人はそれと真っ向から対立する作家です。「感情の作家」に対して彼を「態度の作家」と呼ぶことができるかもしれません。

読者に事件解決への過程だけを示して、つまりはそれを「焦点」にして、そこに「感情移入」させる、読者の「予測」を裏切らずに「娯楽」を提供し、「安心感」のうえに「まとめ」あげるということを大西巨人はしません。もちろん彼は読者のそういう事情をよく承知して、そのようなことをするんだと思います。事件とその解決はただの装置にすぎないというふうです。そのうえで、彼はおそらくべつのことを描いたんですね。




尾瀬路迂はあるインタヴューで「モデル小説」「実名小説」ということで問われたときに、自分の以前のことばを引用します。

仮りに作家がAはけしからん奴だ。あんな奴は、やっつけてやろう。≠ニ考えたとしましょう。しかし、もしも作家が、その際の憤怒または憎悪の普遍性を確信し得なかったならば、彼作家は、「Aにたいする憤懣または憎悪」を作因ないし、主題としての作品創造に取りかかることができないか、あるいは取りかかっても片輪の作品(非文学的な代物)をしか仕立てることができないか、のどちらかに終わるはずです。そして、もしも作家が、その憤怒または憎悪の普遍性を確信し得て制作の場に上がったならば、たとえ彼作家がAを原型(の一つ)として否定的作中人物Xを拵えて筆誅を加えたにしても、その作家における活動作因ないし活動主題は、もはや決して「Aにたいする私的・個人的な怨恨」の類ではあり(得)ません。

そして、彼はこう結ぶんです。

これが文学創造の根本義だ、と私は固く信じます。

また、こういうこともいっています。

作家はそれが叶おうと叶うまいと、必ず大望をもって自己の作品に取り組まねばなりません。おたずねのような「野望」も、私の胸奥になくはないでしょう。

ここでも私の頭に浮かぶのは(便宜上での呼びかただということを繰り返しておきますが)「感情の作家」対「態度の作家」ということです。そして、上に引いた文章では「憤怒または憎悪」だけが取り上げられていますが、実はそれ以外のなににしても「普遍性」は問われることでしょう。おそらく、「感情の作家」は「普遍性」から逃れる口実を「感情」に求めることができるかもしれません。もし、そうだとすれば、「感情の作家」は実は作家ではないんですね。彼の制作したものは「作品」ですらない。「感情の作家」は多いだろうと思います。ということは「感情の読者」が多いということでもあります。そこで、そういう読者は実は読者とはいえない。彼らの読んでいるのは「作品」ではないからです。

こういったらどうでしょうか? 感情というものはあるが、それはちっぽけなものじゃなかろうか、他にもっと描くべきものがあるのじゃないだろうか。




もうひとつ、この作品での他作品からの引用について。

第一の殺人の場面。ここで初めて作家尾瀬路迂が生身で読者の前に姿を現わします。パジャマ姿で、くつろぎながら。彼の書いたものやインタヴューからの引用ではなく、彼自身の身体が眼前にあるように描かれます。

いよいよ彼が毒を口にするところまでが戯曲調(せりふ・ト書き)によって示されます。

そして突然べつの作家の文章が挿入されます。トーマス・マンの『略伝』からの引用。私はもうだいぶ以前──20年ほど前にこの『略伝』を読んでいましたけれど、そのくだりをこんなふうに生々しくは受けとっていなかったんですね。それが、ここで『三位一体の神話』での第一の殺人でこのように引用されると恐ろしく凄惨な印象になっているんです。この効果は絶大です。この引用と、それへの渡しかたですね。




以上です。ぜひ読んでみてください。








≪一冊入魂≫

第35回 『PLUTO』




名作が甦る…
 
 あの名作『鉄腕アトム』が復活しました。単純にリメイクとか再収録というかたちではなく、とあるエピソードを基にしてその世界観を復活させているのです。そのエピソードとは『地上最大のロボット』。しかもその作品の主人公はプルートウ。

 連載開始時に本誌で1回読んだだけでしたが、その作品に対する期待感でいっぱいになっていました。今回ようやく1冊の単行本になりましたので、その興奮を皆さんにお伝えせねば!ってことで今回紹介します。

 『PLUTO』…戦慄のSFミステリーの扉が今開く…



PLUTO

浦沢直樹+手塚治虫

小学館 1巻まで 524円+税
 まずは簡単な作品紹介から。

 スイス山林地帯。燃えさかる炎の中でスイス最強といわれているロボット・モンブランが何物かによって破壊された。そして同時期、ロボット法擁護団体の幹部ベルナルド・ランゲが何物かによって殺害された…

 殺害現場にひとりの男がやってくる。彼の名はゲジヒト。ユーロポールの刑事だ。現場を調査する彼の目に飛び込んできたのはランゲの死体。遺体の頭の横に突き立てられた2本の角のようなもの…

 そんななか不審人物が検問突破をしたという連絡が入る。現場に向かうゲジヒト。そこには負傷した人間の警官とメチャクチャに破壊された巡査ロボット・ロビーの姿が。容疑者は20代の男。旧市街再開発地区に逃亡したとのこと。捜査を開始するゲジヒト。とある廃ビルで容疑者を発見、詰問する彼に襲い掛かる容疑者。巧くかわし取り押さえ銃を向けるゲジヒト。命乞いをする容疑者に彼はこう告げる。

『安心しろ…私は、人間を撃てないようにできている……私はロボットだ。』

 一軒の家を訪ねるゲジヒト。そこはロビーの住まい。彼の奥さんに辛い報告をしにきたのだ。人間のような感情を持ち合わせていないと自覚している彼女だが、夫の死をもって初めてその感情を知ることになる。辛そうな彼女の姿を見たゲジヒトは、記憶の消去を促すが彼女はそれを拒否したのだった…

 署に戻りランゲの事件を検証するゲジヒト。死体の横にある角のようなものを同僚に問われ、彼はある映像を映し出す。それはモンブランの破壊現場の映像。それは転がったモンブランの頭部。そしてその横にも2本の角のようなものが立てられていたのだった…


 この事件をきっかけに次々と事件が発生していくことになります。そして次第にその目的がはっきりと見えてくるのです。それについて書いてしまうのはあまりにも野暮ってものです。皆さんでご確認を。
超私的お気に入りエピソード

ノース2号

P.87〜162
 スコットランドの古城。その一室で演奏されているピアノの音。中にはひとりの老人。彼の元に訪問者がやってくる。その名はノース2号。新しい執事だった。

 ノース2号は軍隊出身のロボットで、戦争では数々の戦いをしてきたのでした。そんな彼がやってきたのは世界的に有名な音楽家ダンカンのもとで、彼は目が見えず、その世話をすべく派遣されたのでした。

 ダンカンは嫌世的で今は仕事のためでなく自分のための曲を作るべく隠居生活をしています。ただその曲を巧く作ることができずにいる苛立ちを彼はノース2号にぶつけてきます。それでも彼は淡々とダンカンに仕えるだけでした。

 ある夜、家の警備をしながら巡回するノース2号の耳に美しいメロディーが聞こえてくる。その曲はダンカンの寝室からだった。彼はうなされながら眠り、その曲を口ずさんでいたのだった。しかもその曲は、いつも自分のために作っているといっていたあの曲の、いつも同じところで止まってしまう部分の続きであったのだ。

 そう告げるノース2号にダンカンはすぐにこの城を出て行くように命令する。だがノース2号はそれを拒み、ピアノを弾けるようになりたいのだと告げるのだった。武器になどピアノは弾けるはずがないと否定するダンカンに彼はこう告げる。

『だから弾けるようになりたいのです。もう……戦場に行きたくないから……』


 この後もストーリーは続いていきます。ただこのあとに関してはあまりここで採り挙げてしまうと実際に読まれたときの感動が薄れてしまうので今回はここまでということで。

 ただ本作品、あの『MONSTER』に匹敵するくらいの面白さを感じます。『MONSTER』ファンの方は要必読です!あ〜〜〜〜〜早く2巻が読みたいっ!

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