| 2003年10月 | |
| ブデンブローク家の人々(トーマス・マン) | 夏の闇(開高健) |
| 第六大陸1・2(小川一水) | わん’sスタイル 秋号VOL.36 |
| 負け犬伝説(唐澤和也) | 間取りが語る(間取りの会) |
| マイコンヒストリー(高安正明) | 店員さんのためのとっさの英会話 (ジャパンタイムズ&コミュニケーション英語研究所) |
| 超私的まんが道2≪一冊入魂≫ | |
| 検事犬神(村上もとか) | . |
| われわれはあれこれの人物を思い出して、今どうしているかしら、と考える。そして突然、あの人はもう歩道の上を散歩していない、あの人の声はもはやみんなの協奏曲の中に混じって響いたりしない、あの人はもう永遠に舞台から消えてしまい、郊外のどこか、大地の下に横たわっているのだ、と気がつく。 | ||
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−ある家族の没落− (新潮社世界文学33 トーマス・マン1) トーマス・マン 森川俊夫 訳 新潮社 4500円+税 (すみません、これは昭和堂に在庫はありません。 ご注文はもちろんお受けします。) |
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| 『ブデンブローク家の人々』はいずれ再読したいと思っていた作品でした。はじめに読んだのはおそらく予備校か大学に入りたてのころ──岩波文庫版『ブッデンブローク家の人びと』(望月市恵 訳。上・中・下巻。これは現在版元品切れ)──で、それから少なくとも20年は経過していることになります。ここしばらく私がこのコーナーで採りあげている作品がやはり再読したものばかり──ということは現在絶版の確率も高いということにもなります──で、そのたびに私は繰り返すことになるんですが、それは「いったい前回初読のときに私はこの本のなにを読んでいたのだろう?」という慨嘆なんです。古井由吉『槿』、W.スタイロン『ソフィーの選択』、P.ロス『素晴らしいアメリカ野球』……。『槿』を読めば、同じ作家の『沓子』へとむかい、『素晴らしいアメリカ野球』を読めば、『ポートノイの不満』や『乳房になった男』をまた読みたくなり、べつの作家の『酔いどれ草の仲買人』(これはずっと以前に買ってはあるんですが未読)へ気がそそられたりします。いま『ブデンブローク家の人々』を読み終え、また『魔の山』や『ファウストゥス博士』へと進みたくもなり、北杜夫『楡家の人びと』をまた読み返したくなっています。 10代の終わりから20代の自分の読書を、いま私は疑っています。当時の自分には全然読み取る力なんてなかったんだ、と思っています。もっとも、それでいいんでしょう。それに、いま私が再読しつつある作品の群れは、とにかくあのころ読まれなくてはならなかったんでしょう。わからなくてもとにかく「すごい!」とうなっておく必要があったと思うんです。いま再読しながら私の感じているのは、たしかにそれぞれの作品はあのころ感じていたように「すごい」のですが、しかし、「すごいはすごいけれど、いや、こんなふうにすごかったのか!」というふうです。「すごい」としかことばを使えないのがなんとも痛ましいけれども。たしか以前に私は、再読しうるかどうかということが本の選択の基準だといい、若いときからたとえば20年後に再読可能なものを読んできた、というようにいったことがありました……これは偉そうではありますが、やはりそうだと思います。偉そうつづきで、これもまた以前に書いたことですが、若いひとは自分の背丈よりも高いと思われるようなものを読んでいった方がいいと思います。のらりくらりではあっても、私はそうしてきたようなんです。 さて、『ブデンブローク家の人々』は私が20年以上も前に考えていたよりはるかにすばらしい小説でした。40歳にしてそう思います。そして、作者トーマス・マンはこれを書き終えたとき25歳でした。書きはじめは22歳……。出版は1901年。 長大な小説です。出版社にこれをもっと短くしてはどうかといわれたマンは、この長さがまた作品に重要不可欠な要素なのだというようなことをいって断わっています。しかし、書きはじめたときの彼はまさかこんなに長いものが出来上がっていくことになろうとは考えていなかったらしいんです。 ごく短い数章からなる「部」が全体で11、つまり第11部まで重ねられた作品です。だから、ある意味ではとても読みやすいです。つくりとしては、『ブデンブローク家の人々』は後年の『魔の山』や『ファウストゥス博士』のような複雑なものではなく、いたってシンプルです。この形でなければ、さすがに20代前半の作家には描ききることができなかったかもしれないとも、ちらりですが、思います。それに、作家も原稿が積みあがっていくとともに年齢(30代でも40代でもなく、20代なんですから)を重ね、成長するわけで、それがこの物語の終わりに近づくにつれて語りの密度(それはもちろん語られることの密度に関わっているわけです)の濃くなるのにちょうどうまく重なりもしたのじゃないかと考えたりします。とはいえ、これはやはりこの主題がこの文体を要請したわけなんですね、またしつこく繰り返しますけれど。 お祖父さんとお祖母さんがいて、お父さんとお母さんがいます。そして3人の子ども。これは北ドイツのリューベックという町の裕福な商人(「ブデンブローク商会」の社主)の家族です。町の一等地の大きな家に越してきたばかりです。こうして物語ははじまります。やがてお祖父さんが亡くなり、お父さんが商会を継ぎ、時がたち、お父さんも亡くなると、3人の子どものうち、長男のトーマスが経営を担います。商会は設立百周年を迎えもします。トーマスにも子どもがあって、ハノーという男の子です……。しかし、この作品の副題は「ある家族の没落」というのでした。 おそらくこの小説のたくさんの登場人物のうち、これを読む誰もに愛されるし、長い読書を苦手とするようなひとには読書の牽引役まで引き受けてくれる、つまり、彼女のふるまいや運命を中心にこれを読んでもいいというくらいの人物が、トーマスの妹トーニ(アントーニエ)なんですが、彼女の子ども時代は トーニはかなりきかん気の子供で、よく羽目をはずすものだから、両親にとって、とりわけ領事にとっていろいろと悩みの種になったくらいであった。学校で要求されることをたちまち覚えてしまう聡明な頭の持主であったが、操行の点ではかなり問題があった…… トーニが、市内を歩き廻る時に出会うどんな相手も見知っていて、お喋りするのは別段、困ったことではなかった。 白い前掛けをつけ盆を持ってブライテ通りをゆっくりと歩いている肉屋は知り合いだったし、ブリキの容器を積んで村からやってくる牛乳売りの女たちとも知り合いで、時々その馬車にちょっと乗せてもらうこともあった。マルクト広場のアーケードにはめこむようにいくつも建てられている、金細工師の小さな木造の店の白髭の親方たちや、市場の魚売り、果物売り、野菜売りの女たちや、街角で煙草を噛んでいる奉公人たちも知り合いだった……それは別に悪いことではない! ところが ところが、年齢がわからず、悲しそうな微笑を浮べて毎朝ブライテ通りを散歩する習慣の、血色の悪い、髭のない男の場合、どんな声でも──たとえば「は!」とか「ほ!」とか──急にかけられると、いやでも片足で踊りだすのだが、それはこの男の責任ではない。ところがトーニはこの男を見かけると、たちまち躍らせてしまうのだった。また、どんな天気でも途方もなく大きくて穴だらけの傘をさして歩く習慣の、頭ばかり大きくてちんちくりんの女性を、飽きもせずに「傘マダム!」とか「きのこ!」とか呼んで悲しませるのはよくない。 いかがでしょう? トーニのふるまいももちろんおかしいんですが、踊る男や傘の女性の、この紹介のしかたは? これがトーマス・マンで、ごくまじめなことばと口調とで、こういうとぼけたことをいうひとなんです。だから、いくら長くてもこの小説、恐れるには及びません。ゆっくり楽しんで読める小説なんです。 こうして読んでいくと、トーニは成長していき、恋をし、結婚をし、……年をとっていきます。兄のトーマスも年をとっていく……。つねにブデンブローク家と商会の繁栄と存続とが家族の意識にあって、みなはこれを誇りに思いもし、負担にも感じることがあります。 結婚を考えなくてはいけないよ、それはおまえ個人のためばかりでなく、家族のためなのだよ、というふうに若いトーニが父から受け取った手紙には ──わたしたちは、愛する娘よ、わたしたちが見通しのきかない目でみてわたしたち自身のささやかな個人的幸福だと思うもののために生まれついているのではないのです。独立した、一人で存在している個体ではなくて、一つの鎖の環のような存在だからです。 その父の後を継いだトーマスは トーマス・ブデンブロークは……自分が引きついだこの名前と商会の看板に奉仕した……つまり、小さな世界で偉大さと力とを達成しようという野心を、みずから憫笑すると同時に、本気で守り育ててゆく精神を持ち合わせていたのである。 弟のクリスティアンは彼にこんなことをいいます。 あなたは人生において一つの場所、一つの尊敬すべき地位を征服した、そして今そこに立って、一瞬でも自分を迷わせ、自分の平衡を乱すようなものはすべて冷ややかに、意識的にはねかえしてしまう。何故かと言えば平衡、これがあなたにとって一番大切なものだからだ。しかしそれは一番大切なものなんかじゃないんだよ、トーマス、神さまの前に出ればそんなものは重大事じゃない! あなたはエゴイストだ、そうとも、エゴイストだ! ぼくはこんなことにはあきあきしたよ、節度だ、上品さだ、平衡だ、心構えだ、威厳だ、なんてことにはね……死ぬほどあきあきした!…… しかし、トーマスも40を過ぎ、次第に疲労してくるのですが、この疲労は彼の父や祖父の世代には見られなかった質のものなのです。 トーマスの 心のなかは空っぽだった。気持のわくわくするような計画も見当らなかったし、喜び満足しながら没頭できる魅力的な仕事も見当らなかった。 ……疲労と倦怠が募ってきて、トーマスの目を曇らせ、顔面の筋肉と身体の姿勢を支配する力をトーマスから奪い取るのであった。そういう時のトーマスの心を充たす願いはただ一つ、この物憂い絶望に屈服してその場をこっそり抜け出し、家で頭を冷たい枕に横たえることであった。 いや、今回の読書で実は自分がこれほどにもトーマスの疲労に共感をおぼえることになるとは思っていませんでした。20年前の自分には想像もつかなかったほどの共感をおぼえ、愕然としました。 物語もお祖父さんやお父さん健在のあたりまでは、たんたんたんと縦に拍子のとれるような速度で進んでいくんですが、トーマスの疲労の描かれるあたりからは、厚くて長い旋律がゆっくりした速度で流れるようになってきます。上で「語りの密度」がどうこうといったのはこのことです。 彼のひとり息子ハノーはさらにも疲れやすい、父にも嘆かれるような繊細さをもち、学校を嫌い、音楽に耽溺するような子どもです。商会の後継者となるべき息子がこんなふうで、どうなるのか? やがて最終部にかかると、書き出しはこんなふうです。 われわれはあれこれの人物を思い出して、今どうしているかしら、と考える。そして突然、あの人はもう歩道の上を散歩していない、あの人の声はもはやみんなの協奏曲の中に混じって響いたりしない、あの人はもう永遠に舞台から消えてしまい、郊外のどこか、大地の下に横たわっているのだ、と気がつく。 そうして、しかし、まだ生きているひとたちがいて、それは物語の節目節目にきちんと顔を出してきた同じひとたちで、そして年をとり、衰えてはきていても、これまでと同じようにふるまい、しゃべりつづけるんです。その姿を見ると、読者は物語のなかでずいぶんと年月の経過したことを実感することになるんです。 今回の再読は、ブデンブローク家に時間の流れるのをいっそう強く感じるとともに、私の初読時から今日までの20年という時間を単なる数字としてではなく、私自身の変化の大きさとして受けとめることにもなったのでした。歳をとったものだ。 ……………………………………………………………… それにしても──まだいってみたいんですが──作家がある主題と形式を選んだとき、つまりこれを文体を選んだときといいかえてもいいですが、それは自分の描かないものを決めた、作品の他の可能性を断念したということでもあって、それを20代の前半からの大事な数年間につづけることのできたトーマス・マンに感嘆します。きょろきょろしないで、よく踏ん張りつづけられたものだということです。7月にここで紹介した作品の登場人物のように、マンだってこうは考えて心細くなったりしたと思うんです。 ≪内田さんはあと何年踏ん張ってるんですか。そういうのって、やっぱりスタートの考え方が間違ってるって言うんじゃないですか? スタートに失敗してたら何十年踏ん張ったってダメですよ≫(保坂和志『カンバセイション・ピース』) まったくマンは彼の『ヴェニスに死す』の主人公のように仕事をしたんだと思います。それは、 ……ほかの人が浪費したり熱狂したり、大きな計画の遂行を事もなげに延ばしたりするような年頃にも、彼は自分の一日を朝早く冷水を胸や背中に浴びせて始め、それから銀の燭台二つに長い蝋燭を立てて、それを原稿の上手に据えおいて、睡眠によって蓄えた力を、二、三時間の、激しく良心的な午前の時間のうちに芸術のために提供した。 (『ヴェニスに死す』高橋義孝 訳) |
| 氷雨にうたれるまま何時間もすわったきりだったので、たちあがると体のあちらこちらが音をたてた。しかし、もういい。大丈夫だ。私は更新された。簡潔で、くまなく充填され、確固としている。 | |
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開高健 新潮文庫 438円+税 |
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| エピグラフには ……われなんじの行為(おこない)を知る、 なんじは冷(ひやや)かにもあらず熱きに もあらず、われはむしろなんじ が冷かならんか、熱からんかを 願う。 と『黙示録』のことばが引かれています。 これはドストエフスキーもたとえば『悪霊』などで引用してくることばですが、ある種の無感覚の人間への非難というふうに考えてもらえばいいと思います(と、簡単にいいましたが、現代文学にはこのテーマの作品がどっさりあるはずです。もちろん開高健だってそのことは承知です。それでもあえて『黙示録』を引っぱってくるからには相当の勇気と覚悟と自信があったんじゃないでしょうか。それにしても、この同じ『黙示録』のことばはドストエフスキーを通じて読むかどうかによって、重みが全然変わります。そうやって、はるかに重量のかかったことばとして、後進の作家たちは引用するんだと思います。かりにドストエフスキーを読んでいなくても、現代作家がこの引用をするとき、彼は無自覚なままドストエフスキーを経た意味をもたせているはずです。ドストエフスキー以後とはこういうことです)。 そのような無感覚の状態に語り手の「私」もいます。そうして、 その頃も旅をしていた。 ある国をでて、べつの国に入り、そこの首府の学生町の安い旅館で寝たり起きたりして私はその日その日をすごしていた。季節はちょうど夏の入り口で…… というのが書き出しで、おそらくはパリにいる「私」はほとんど寝てばかりいます。そこへ昔つきあっていた女が訪ねてくるんですが、彼女はかつて「ほとんど無一文のままで日本を去った」後、 いくつもの国を渡り歩き、国を変えるたびに手紙をよこした。それによって私は女が日本商社のタイピストをしていることや、キャバレーのタバコ売り娘をしていることや、やがて奨学金をもらえるようになって学生にもどったこと、イギリス人の若い原子科学者に結婚を申込まれたこと、ドイツ系アメリカ人の言語学者と恋をしていることなどを知らされた。文面からするかぎり女はいつも不屈で、勤勉、精悍、好奇心にあふれるまま前進し、国から国へ移動し、生を貪ることにふけっていた。 ──のでした。 ふたりは「私」の部屋に引きこもることになります。「私」は性交するほかは寝てばかりいて、女が外に買い出しに出ます。ある意味で対照的な組み合わせのふたりということです。なにしろ彼女は夢中で性交し、しゃべります。彼女は輝いています。 「私」は彼女にこういうことをいいます。 「おねがいが一つある」 「なあに?」 「ママゴトでやってほしいんだ」 いってから私は口をつぐみ、タバコに火をつけた。女は私の狼狽に気がついたようではなかった。つきでた高い胸のしたに腕を組み、首を少しかたむけ、夢中のまなざしで堂々と微笑していた。ママゴトにしてほしい。ピッツァも、デッキ・チェアも、搾菜麺も、チャプスイも、ママゴトにしてほしい。それ以上のものにも以下のものにも、できたら、しないでほしい。血を見ることになる。ふたたび繰りかえすことになる。私はそういいかけて口をとざしたのだ。 ふたりは今度は国を移動し、彼女の部屋で生活します。「私」はやはり寝てばかりいます。それで、あいかわらずこう考えるんです。 女がこの部屋に家の匂いをつけ、主婦のそぶりになじむことを私は恐れている。一瞬でもそれをさきへひきのばし、遅らせ、避けようとしているのだ。朦朧のなかにあの胸苦しさを予感しているのだ。 あるとき「私」は女がこの10年間の苦労のうちにひそかに買いためてきた戦利品ともいうべき品々を見せられます。 女は地下室までいって、そこの物置室に入れてある品を一つ一つ腋にかかえて部屋に持ちこみはじめた。ハイ・ファイ・アンプ。掃除機。ミキサー。デンマーク製ランプ。靴。靴。靴。羊皮のコート。アザラシのコート。それらの物をまるでデパートの特選品売場のように女は床いっぱいにならべ、音波洗濯機と冷蔵庫はうごかせないのでおいてきたといった。そしてまんなかにたつと、テレビ、ヤクの皮、タイプライター、室内全体をゆっくり腕をふってさしてみせ、ひっそりとつぶやいた。 「みんな私の物よ。買ったの。タクシーにものらないで、お茶もケチって、買ったの。どうオ。見てよ。がんばったでしょ?」 誇りとも苦笑ともつかず女は微笑した。いま が女の全身をみたし、輝きながらあふれだしてきて、ふちでふるえていた。女は足を少しひらいてたち、一つ一つの物を指さして、どうやって買ったか、苦心談を話しはじめた。 さて、ここからです。「私」はとんでもないことに気づくんです。長い引用をつづけます。 そのときになってやっと私に一つのことが見えてきた。女の孤独が十年間にどれだけの物を分泌できるかについての愕きはひっそりと後退していき、ある荒寥がくっきりとあらわれてきたのである。女は子供かペットの群れにかこまれたように感じて微笑していたが、まったく剥離しているのである。 さきほどの食事のときの皿や、鍋や、茶碗などは傷や垢を持っていたが、それでもおなじ気配をひそませていた。浴槽、ガラス壁、バルコン、この室全体、体のまわりのすべての事物について女は何の影響も与えることができないでいた。事物は触れられ、握られ、使用され、効果を生むが、女は事物から事物へしなやかにすべっていくだけで、事物は女の指のしたで金にもならず、灰にもならず、寡黙だがいきいきした小動物にもならないのである。指とたわむれたり、すねたり、からみついたり、かけよったりしようとしないのである。この室に十年棲もうが二十年棲もうが、清潔を保とうが汚そうが、女がでていくときは、室ははじめて女が入ってきた日とおなじたたずまいでいることと思われる。女は室に棲んでいながら、棲んでいないようなものなのである。事物について主人なのではなく、間借人なのである。だからあの赤いレインコートも糸がすりきれ、型がくずれ、皺だらけになるまで使いこなされていながら女の皮膚とはならなかったし、犬にもならなかったのである。ていねいに折ってソファにおかれても犬がまなざしや、声や、手を待ちうけるようなそぶりで女を待つことはないのである。 そう考えながらも、「私」は女に話しかけられるとこんなふうにこたえます。 「ねえ。ちょっと凄いでしょう?」 「よく似合う」 「私もそう思ってるのよ」 「いい買物だよ」 「誰かにそういってもらいたかったの」 さて、このすぐあとに「私」が思い出していることがあります。 何年も前に私は……一人の若い画家と知りあいになった。九州出身だということのほかに私は何も彼について知らない。彼は自分を画家と呼んでいたが、彼が絵を描いているのを私は見たことがない。 彼はひどい貧乏をしていて、カンヴァスを買う金もなく、「一日に半度か、二日に一度半ぐらいしか食べていない」んですが、「女についてはいい腕をしていた」。 その酒場に彼をさがしにあらわれる女の顔がいつもちがった。それはお針子や、デパートの売子や、小学校の教師などだったが、彼は男根を提供し、女たちはサンドイッチやハンバーガーを提供することになっていた。 あるとき彼の部屋へ私は連れていかれたことがある。それは階段下の女中部屋よりまだひどい物置小屋で、じめじめし、正体のわからない腐臭がたちこめていた。 その薄暮頃の暗がりのなかに床といわず、壁といわず、彼があちらこちらで拾ってきたガラクタが山積されている。便器の蓋。自転車の車輪。ドアの取手。ガス管のきれっぱし。水道栓。馬蹄。ありとあらゆる種類の自動車の部品。つぶれたモンキーや、ジャッキや、ハンマーなどもあった。彼はつい一昨日見つけてきたばかりなのだといってイタリア・センベイを焼く鉄のうちわのようなものをとりだしてきて私に見せた。どこか駅裏のゴミ捨場に落ちていたものではあるまいかと思う。 「いいなあ。これなあ。そう思いませんか。凄いじゃないか。ちょっとこういう真似は出来ないよナ。ほれぼれしてくるなあ。おまんことどちらがいいだろ」 暗がりのなかで彼は声をひそめ、眼を細くして、何度となくそのこわれたセンベイ焼きを愛撫した。上に下に、右に左に、ゆっくりと、またせかせかと、皮と骨だけになった手で撫でまわした。心底から彼は感動していて、ほとんど射精しそうになっているのではあるまいかと思われた。盲人の手のようにみだらなほどの執念、強力さ、嗜慾をこめて彼はその古鉄を撫でまわし、私がよこにいることを忘れてしまった。その手と古鉄を眺めているうちに私は一撃をうけたのである。赤錆びでゴワゴワになった古鉄の円板がふいに形からぬけだすのを感じたのである。汚穢と風化のさなかでとつぜん古鉄が柔らかくなり、優しくなり、彼の手にじゃれついたり、媚びたり、体をくねらせたりするのが見られた。ある王はその指にふれる事物ことごとくを金に変えたと伝えられるが、彼は生物に変えてしまうのだった。私にはそれができない。何度試してみたかしれないが、ただ事物に指紋をつけるだけのことである。私は事物を見てもいなければ、握ることもできないのである。数日後に私は股引をぬいで彼に贈ってから空港へいったのだが、記憶はいつまでものこった。 ここを読んで「あっ」と思いました。それまで80ページほどを読んできて、ここに来て突然、この小説がただものではないことが了解された、という感じでした。あ、おれはもっと真剣にこの作品に向き合わなくてはならないぞ、というふうに。 ここではいままであれほど輝いていたと見えた女も「私」と同じく「事物に指紋をつけるだけ」しかできないということが判明したわけです。そして、女にはその自覚がない。「私」にはある。しかも、「私」はずっとこの自覚のもとにいろいろ考えつづけていたはずです。そういう「私」だから、作品の冒頭からずっと横になったままなんですね。行き詰まりを感じている。絶望している。これから自分がどうしたらいいか、まったくわからない。しかし、自分の絶望については精通しているわけです。それを避けることができない。目をそらすことができないんです。 以前に永井均さんの『<子ども>のための哲学』を紹介しながら、私はこういうことを書きました。≪誰にもわかってもらえないような自前の問い。……それでも、自分の問いである以上、大切にしていく。他人に嫌われるからといって、妥協したりせず、そのままの形で抱えつづけていく。≫そうして、この『夏の闇』の「私」も問いを抱えつづけているんだと思います。この問いを「私」は女には突きつけません。女にはやさしいことばをかけてやります。とはいえ、結局は「私」は自分の問いのために女のもとを去らなくてはならなくなるんですが……… うなりつつ読みました。開高健の小説を実は初めて読んだんです。『輝ける闇』も買いました。期待は大きいです。 |
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小川一水 ハヤカワ文庫 各680円+税 |
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| SFのジャンルの最近の流れは「現在の技術力・科学力の延長線にある、ほんの少し未来のお話」というのが主流のようですが、この『第六大陸』それに沿ったものといって良いかもしれません。 第一巻では世界でも有数の技術力を持つ大手ゼネコンに別の大企業から“とんでもない”計画が持ち込まれることから始まります。さらに中核となるもう一つの企業が加わり、主要三社を中心として幾つもの企業が参画しますが、そのとんでもない計画とは、“民間として”月に【結婚式場】を造ってしまおう!というものでした。なぜ【結婚式場】か、という「企業の計画」そのものは置いといて、面白いのはどうすれば月に建物を建築できるか?という「現場の計画」です。膨大な資材を運搬する為の、それに見合う推力をもったロケットはどうするのか。どのように建築するのか。作業人員の滞在方法とその安全性の確保はどうするのか。宇宙開発には最大の足かせとなる資金はどのように捻出するのか。 そのような問題を一つ一つクリアしながら、計画は新たに開発されたロケットエンジンとともにその一歩を月に記すというところで終わります。 第二巻目になると、計画に対し様々な問題・困難が待ち受けます。それらは全て現実的で宇宙を目指す時に付帯してつきまとうものです。 例えば『宇宙法』(この小説で適用されるのは1967年の宇宙条約で「月協定」にあたるもの。月の商業利用を禁止する条項)の壁。 さらに「ワン・インチ・デビルス」と呼ばれる、レーダーにも映らない大きさのスペースデブリ(過去に打ち上げられた、あるいは破棄されたロケットや衛星や、その破片・ゴミ等)の問題。これってただでさえ厄介なのに、自分達がロケットを打ち上げれば打ち上げるほど、そのゴミをさらに増やしちゃうわけです。 そして、やはり出てくるのが“資金不足”。これが最大の問題でした。人間が宇宙を目指す時に必要なモノっていくつかあります。まず人材。強靭な身体と強い意志をもつクルーと、彼らを支える膨大な数の、そして優秀なスタッフ達、ロケットを生産・管理・運用及びコントロールする技術(でもこれって基本的なところは30年間変わってないんですよね…。この小説も既存の技術ベースになってます。まぁあくまでもベースですし、+αもあるんですけど)そして何より大きな力を持つのが「お金」でしょう。宇宙開発は金食い虫。月へ行ったから、火星に行ったからって学術的な充足以外にさして得る物はなく、有益な宇宙開発って言ったら、もっと低軌道上における衛星事業や無重力化での製品開発ぐらいのものじゃないでしょうか。それ以外の宇宙開発で民間企業の存在理由である「利益」などなかなか発生しないものです。『第六大陸』でも資金難は最大の問題としてスタッフを苦しめます。 その様な困難の中、月に【結婚式場】を建設する真の理由は何なのか。それはこの第二巻の中盤で明らかになります。 宇宙モノとしては登場人物とその内面性が描かれている秀作です。ま、最後はSFらしい“お約束”もありますが…。でもそのお約束に使われる小道具(大道具かなぁ)もなかなか凝っていてGOOD!です。 |
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わん’sスタイル 秋号VOL.36 フロム出版 1333円+税 |
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| まず表紙にもなっているプードルの特集からはじまります。実際にプードルと暮らしているご一家の紹介です。プードルの特徴やトリミングのコツ、幸せに暮らすためのアドバイスがくわしくわかりやすく載っています。現在プードルはチワワに変わって人気犬種No1でプードルブームに突入しつつありますが、一緒に暮らす際にはきちんと特徴等を把握しておくことが必要だと思います。つづいてこの季節、愛犬とのお散歩に参考にしてほしいエリアの紹介もあります。少し足をのばして探索するのも良いと思います。また、新作の服や各種グッズもこの秋そろえたいものばかりです。ファッション誌感覚で写真もたくさん載っているのでぜひチェックしてください。その他ストレス解消の愛犬へのマッサージ方法、獣医さんに聞く健康状態の見分け方ポイントはすごく役立ちそうです。 |
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唐澤和也 ぴあ 1400円+税 |
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| 10月になり、ワールドチャンピオンを目指してスポーツニュースは連日松井松井松井と松井一色になってしまっている。日本人メジャーリーガーのうち唯一残ったのがヤンキースの松井だけなので仕方がないのだが。 そんな時期だからこそオススメしたいのがこの本『負け犬伝説』だ。ぴあ≠ナ連載したものをまとめた本で、お笑いの雨上がり決死隊≠笏o優の中村獅童、そしてミュージシャンのKj(Dragon Ash)などと一緒に田口壮(カージナルス)について書かれているから。 2年目のアメリカのシーズンを終えたところだが、今シーズンは開幕直前に3Aに落とされ、途中数日メジャーに呼ばれたりもしたが、8月16日に再昇格するまで日本ではマスコミにはほとんど取り上げられることもなく、メジャー昇格後も、松井やイチローのようにレギュラーではないため小さな扱いになってしまい、そこでの数字だけを追っていくと田口のメジャー挑戦は失敗だったという気になるが、この本を読めばそうではないとわかる。 昨年最後の2Aの試合を観戦していた恵美子夫人は地元ファンに 「知ってるか? 最近、メジャーで日本人選手が活躍するようになっただろ。俺らは彼らを、輸入品って呼んでるんだぜ。ま、それはそれですごいことさ。でもな、壮は輸入品じゃないからな。ニューへブンで育って、俺たちが自信を持って、メジャーのセントルイスへ送り出すんだから。わかるだろ? 壮は、インポートなんかじゃないぜ」 と声をかけられたそうだ。 そして田口は著者とのメールのやりとりで<「負け犬伝説」にひとこと>に答えて、 「負けた人間」を見て笑う人が、本当の「負け犬」だと思います。「負けた人間」は、少なくとも勝負をしたのだから。その負けから、たくさんの財産を得ることができるのだから。一生勝ち続ける人なんていません。 かっこよすぎる。来シーズンもまたどうなるかわからないが、同時代の希望の星として勝負し続けて欲しいものだ。 |
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間取りの会 編 宝島社 1048円+税 |
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| な…なんじゃこりゃ〜! いつかは出回るであろうと予想していた【間取りの手帖】の類書ですが…、一番出しそうな出版社がやってくれました(笑)! このテの【Vow!】ネタは流石に元祖、実在の物件からドラマやアニメの気になるあの物件、有名人の住むこの建物、果てはあの事件のあったこの部屋など、気になる間取りを一挙に紹介しております。 余談ながらP156、【男はつらいよ】の舞台となった【くるまや】の一階部分は、先日柴又の【寅さん記念館】にて実物を見て参りました…配置が間取り図通りなのにはビックリ。 いやぁ…宝島社さん、ちゃんと調べたんですねぇ、脱帽です。 今回のオススメ度 ★★★☆☆(以前紹介した、【間取りの手帖】にハマった方は是非。P122、広尾の高級マンションなんかは一度住んでみたいですねぇ…家賃がべらぼうに高くて絶対ムリだけど) |
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あるパワーユーザーが体験した、 パソコン戦争の軌跡と未来 高安正明 ソフトマジック 1500円+税 |
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| 一世を風靡した名機たち… 世界初のコンピューター【エニアック】が登場してからはや60年近く…現代のコンピューターの発達速度には目を見張るモノがあります。 少し前の【トリビアの泉】で、 【アポロ・ロケットの軌道計算をしていたコンピュータの性能は、ファミコン以下】 …なんて言うネタがありましたが、現在では一般家庭でもそれを遙に凌駕する性能のコンピュータがゴロゴロ稼動しているのですから…いやはや恐れ入ります(^^;) 昔は家庭用コンピュータを指して【マイコン】と呼んでいたものですが、本書はその古き良き時代の【マイコン】から【パソコン】に至るまでの歴史を当時の代表マシンと共に綴った一冊です。 機種名を挙げれば MZ−80・PC−8801・FM−7・X−6800・PC−9801 勿論、日本初の共通規格パソコン、【MSX】にも触れており、長い事パソコンに慣れ親しんで来た方にはノスタルジックさえ感じさせてくれます。 今回のオススメ度 ★★★☆☆(日本市場においてのパーソナル・コンピュータの発達史を纏めた一冊。何故NECのみが市場を独占し、Windowsパソコンにその座を奪われたのか、これからのパソコンはどう発展して行くのかを問う一冊、パソコンの歴史を知りたい方は是非) |
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とっさの英会話 ジャパンタイムズ & コミュニケーション英語研究所 ジャパンタイムズ 1600円+税 |
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| これさえ言えてれば…! 2週間ほど前、日本語が全く喋れない外人さんの応対をした時の事。 彼はある一冊の本を売り場から持ってきて、 「友達に頼まれて探していた本を見つけたんだけど…今持ち合わせが無いんだヨ、必ず買いに来るから置いといてくれないかな?」 みたいな事を一生懸命レジに話しておりました。話の内容は理解できたのだけど、誰もそれに答えられず結局会話が噛み合わないまま、外人さんは帰って行かれました(T_T) あぁ…あの時 Would you like us to hold it for you? (お取り置き致しましょうか?) …とひとこと言えてれば、約\5000-もの高額本が一冊売れたかも知れないのに…(泣) 今回のオススメ度 ★★★★☆(各種職業で使用頻度の高いフレーズを纏めた英会話集で、かなり実戦的です。外国人客の多い地区に店を構えている方、お勤めの方には是非とも常備して頂きたい一冊です) |

≪一冊入魂≫
第22回 『検事犬神』
| 待望の復刊! 先日1冊の本が復刊されました。それは約10年前、『スーパージャンプ』誌上でシリーズ連載されていまして、その時一度単行本化されていた作品でしたが、その後1回絶版となってしまっていたものです。私は当時既に購入していましたが、今回の発売にあたり大増ページ改訂版!と書かれていたので思わず改めて購入してしまいました。10年ぶりに触れたその作品は色褪せることもなく、当時読んだときの興奮と感動が再び蘇ってきました。 その作品とは村上もとか先生の描いた名作『検事犬神』です。当時はあまり検事という職業をテーマにした作品はあまりなかったと記憶しています。ですが最近は『ざこ検潮』など多数の作品があります。その先駆け的作品、是非お試しあれ! 余談ですが、大増ページとありますが、以前のものと何処が違うのかはっきりと判りませんでした(笑) |
| 検事犬神 村上もとか 集英社 全1巻 590円+税 |
| まずは簡単な作品紹介から。 東京地方検察庁。多くの事件の真実を追及すべく、毎日戦いが行われている場所。そこにひとりの名物検事がいた。 犬神晴彦41歳。真実を追究すべく、不確かなものは徹底して調べなおし、間違いがないと確信するまで起訴はしない。そのスタイルと風貌と名前からついたあだ名が『ウルフ』。 世の中の不正と戦うべく検事の道を選んだ彼は、粘り、洞察力、そして勇気を持って罪を犯した者たちの闇の核心に迫るべく今日もまた難事件へと向かっていくのだった… この作品の主人公犬神は敏腕検事ではありますが、そこには常に真摯なまでに真実の探求に止まない反面、人を思いやる感情をどこかにひそめている、そんな男です。ですから検事室を一歩離れたときからちょっとおっちょこちょいで女性にめっぽう弱い面を見せてくれます。 そんな彼がとある事件の容疑者として知り合った女性に密かに恋心を抱くことになります。その恋の行方は次のお気に入りエピソードで。 |
| 超私的お気に入りエピソード 勇気ある告白 P.109〜138 |
| その女性というのは白川綾子。殺人事件の容疑者として犬神の前に現れた彼女はまるで天から授けられた受難を喜んでいるように見える聖母マリアのように映りました。 結局彼女は無罪で、彼女の弟の犯した罪を自分のものとしていただけでした。彼女が釈放されてからしばらくの後、犬神は街のスーパーで偶然彼女と出会い、更にその後、酔って街を徘徊している最中にチンピラに絡まれた綾子を見つけます… 結局チンピラたちに返り討ちにあってしまった犬神。顔を腫らしたまま綾子と共に街を行く。彼女の今の生活の話を聞きながら犬神はふとこう告げる。 『白川さん。私は検事としてかつてあなたを取調べ、更にあなたの弟さんを自白させ起訴した人間です…しかし…あなたにもう一度会いたい!』 だが弟をさしおいて自分だけ幸せにはなれないと、その申し出を断り去っていく綾子。ただその後姿を見送ることしか出来ない犬神… そのあと贈収賄の罪で検挙された議員秘書の取調べを続ける犬神。その容疑者が語ろうとしない真実を何とか自白させようとしているからです。その取調べと議員への思いに耐えきれずに秘書は自殺を図ります。病院に担ぎ込まれた秘書の下に現れたのは、密かに秘書と恋仲にある議員の娘でした。 その彼女の勇気ある告白のおかげで事件は一気に解決の方向へと進み、容疑者として見られていた秘書は無罪放免となりました。そしてその数日後… 雨が降り始めたF刑務所前。ひとりの女性が面会を終えて門から出てきた。白川綾子。弟の面会に来ていた。 次第に強くなる雨脚。手にした傘を広げ家路につこうとする彼女の前にひとりの男が立ちはだかる。犬神だった。彼は言う。 『今まで…二度…偶然あなたに会いました…でも今度は……偶然ではありません……お会いするにはこの方法しか思いつかなかった……今までの…あなたと弟さんとの面会日時を調べさせてもらったのです…すみません!職権濫用です……検事たる者がやるべきことではありません!しかし…どうしてももう一度お会いしたくて……』 その時綾子はそっと彼に近寄りこう言う。 『検事……いえ…犬神さん…どうぞ……』 そしてそっと手を伸ばし彼を傘の中に招き入れるのだった… |