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2001年6月
小石川の家(青木玉) 「からだ」と「ことば」のレッスン
ことばが
かれるとき(竹内敏晴)
クラッシュ 絶望を希望に変える瞬間(太田哲也) 学問がわかる500冊 1・2(朝日新聞社 編)
TOGETHER(中田英寿・洪明甫) 1998 ホームランの夏(マイク・ルピカ)
クレジットカード・デビットカードとことん活用術
(岩田昭男 プラスチック・カンパニー)
住宅資金&ローン 完全チェックリスト(山下和之)
超私的まんが道
ファミリー!(渡辺多恵子) 狼には気をつけて(遠藤淑子)
ハッピー!(波間信子) .


「母さまにいいもの買って来たの、後で見てね、それにお八つに食べようと思って苺買って来たの、忙しかったから、夕御飯のあとで食べようね」
「えっ」
と母がふり向いた。
「あんた、苺買って来たの」
「うん」
と鰹節の手を止めて顔を上げると、
「ちょっと見せて」
と母が言う、買ってよかった、母さんも気に入ったんだと飛んで二階へ上り、急いでかけ紙を外して見せた。苺はつやつやと並んでいた。
「あら、いい苺丁度よかった、お客様にお出しするのに使えるね」
声も出なかった、うつむいて鰹節を持ったが泣き出してしまった。
「母さまと食べようと思って買ったのに」
さらしうどの水を取り替えながら母は知らん顔だ。
「お風呂場で顔を洗って来なさい、はれぼったいべそかき顔でお給仕にさしつかえるでしょ」
顔を洗っても、まだ鼻をすすりすすり柱の裾によっかかって膝をかかえた。
「斎藤先生がいらっしゃっているのよ、玉子は何時も先生に優しくして頂いているでしょ」
それはそうだ、斎藤茂吉先生はおみえになると何時も声をかけて下さって、よく私にお土産を下さる。お客様の中では大好きな先生だ。でも、でもこの苺――。
小石川の家

青木 玉

講談社文庫 467円+税
昭和堂ファンの ゆずはさん(仮名) から
おすすめを紹介していただきました。
「今日これから小石川のおじいちゃまの所へ行くのよ、向うへ行ったら『よろしくお願い申し上げます』と御挨拶しなさい。それから何かおじいちゃまがおっしゃったら、言われた通りにすること、口応えや重ね返事、大きな声で騒ぐこと、やたら動き廻ることも、家から勝手に外へ出ることもしてはいけない。とにかくお行儀よくおとなしくするの、解った」
「うん」
と返事をしたら、
「それ、その、うんもいけない、返事ははいと一
言よ」
言われてはいと言ったが、この時言われたことがこの先どれ程守るにむずかしく、総ての生活がこの時を境にして一変したか、私は気付いていなかった。
昭和十三年(一九三八年)、母は離婚して私を連れ祖父の元へ帰った。

上の引用は、この本じたいの冒頭にある文章なのですが、これをはじめて読んだとき、なんだかなつかしい感じがしたのです。理由はというと、こどものころ、親になにかいわれて「はいはい」といいかげんに返事をしたら「『はい』は一回!」と叱られ、しかしなおも「は〜い」と返事をして怒鳴られた、そういうたあいもない光景を思い起こしたからでした。(私のこども時代はそういうのばっかりでした。といっても、いまでもそんなに変わりませんが。(笑))

ここに出てくる祖父は幸田露伴、母は幸田文。どちらも日本文学史に名を連ねる文人ですが、文豪・女流、というよりも、ふたりはどんな祖父であり母であり、また父であり娘であったか、ということ、……ていうか、ふたりは幼い玉子ちゃんにどれほどの小言を雨あられと浴びせたか、というのが、この本に描かれているほとんどです。
「風邪ひき」という章をのぞいてみましょうか。


医者を呼ぶのを祖父は嫌う。
(中略)人から規制されるのが大嫌いだ。医者なんぞの言うことを聞かなくても、お風呂に入って気に入った一杯で気持ちよく寝れば、風邪の神なんか追払ってやる。
気持ちはそう思っているのだが体が食事の時に起きてみても、じきに疲れて起き切れない。何てじれったく腹の立つことばかりだ。じりじりして目の前に来るものがあれば何でもつっかかりたいのだ。


……不穏な空気が漂ってますね。それでうちのひとたちはどうするかというと、

母はそれ(=不機嫌)を承知し切っているから、引っかからないように抜け目なく出つ入りつし、何か言われそうだなと思うと私を使う。

……したたかなお母さんです。こうして玉子ちゃんはおじいちゃまの前に出ることになります。

お盆に乗せた薬の小さいガラスの盃を見て、
「おや、又何か出て来たのか、それは何だね」
「食間のお薬です」
「お隣りの先生がよこした薬かい」
「はい」
「何のためのものか、おっ母さんは言っていたか」
「いえ、お上げしてくるようにって」
「うむ、それでお前は何も聞かずに持って来たのか」
はい、と言っても、いいえと言っても返事にはならない。
こういう状態を母と私は三又といった。はいも駄目、いいえはなお、三つ目の、聞いて来ますの一時のがれも利かない。どの道叱られる他はない、黙って畳のへりでもぼんやり見ていれば、そこに返事が書いてあるのか、と突込まれ、口を利かずに腰を浮せれば、返事もしないで座を立つことが出来るのか、ならば立ってみろ、と足払いがかかる。

……ハードです。玉子ちゃん絶体絶命。

何しろ逃げ出したい、先ずは謝って逃げようと、
「申し訳ありません、聞いて来ます」
「何を申し訳ないと思っているんだ、お前は何も考えないで、ただふわふわしている、申し訳などどこにもありはしない。薬というものは恐ろしいものだ、正しく使われれば命を救うが量をあやまてば苦しみを人に与える。何の考えも無しに薬を良いものとだけ信じて人にすすめるとはどういうことだ。(中略)愚かな者は、自分がよいことをしたつもりで恐ろしいことを平気でやってのける、お前は自分のしていることを、どう考えているのだ」
ただお盆を渡されて、
「持ってって」
といわれて持って来て、何を叱られているのか解らないうちに、自分は愚かなために祖父を苦しみ死させようとしている悪者になり、謝ろうにも、何を謝っていいのかわからず悲しくなってぽとぽと涙がこぼれる。

と、こんなぐあい。がんこじじいここにあり、という感じですが、たしかにすじはとおっているような気がしますね。こんなひとを相手にしたんじゃ、小さい女の子に勝ち目があろうはずもありません。
玉子ちゃんのお母さんというのも切れ味のいいひとです。がんこじじいのお小言を聞いてきた歴では、玉子ちゃんの大先輩。そして、女のひと独特の勝ち気さもあいまって、ときにはじじい以上の威力を発揮します。そんなふたりに囲まれて、気弱な玉子ちゃんは、ときにはびくびくしながらも、どこか能天気な、やさしい女の子に育ってゆきます。

私がこの本を文庫で買ったときには、<女の愛読書フェア>という帯がついていました。そんな帯には関係なく、水彩画の美しい表紙に惹かれて手に取ったのでした。が、読み終えるとどういうわけか、実家の母にも読ませたくなり、もう1冊買って送りました。そんなふうにさせるあたり、いかにも<女の愛読書>にふさわしい本だといえるかもしれません。母も気に入っているようです。女はいくつになっても母の娘であるらしい、と、ときどきこの本を読みかえしながら思います。母の日をすぎてもうだいぶ経ちますが、『おかあさんとあたし。』『白い犬とワルツを』同様、(とくに、お母さんへの)プレゼントにもおすすめです。おかあさんのムスメでよかったよう、と、思うのです。







「からだ」と「ことば」のレッスン
(講談社現代新書 660円+税)


ことばが劈(ひら)かれるとき
(ちくま文庫 640円+税)

竹内敏晴

う〜ん。今回の紹介はとてもむずかしい。ものすごくたくさんの長い引用をしてしまうことになるだろうし、それがかえって焦点をぼやかしてしまうことになるのじゃないかなあ。まだ読んだばかりで、こちらがうまく消化してないってこともあります。ただ漠然と、この著者のいうことが、以前から私自身の考えてきたことに関係している、なにか通じている、それでどういう具合か自分にヒットした、と感じていることにまちがいないんです。紹介しようとして頼りにできるのはその「感じ」だけなんです。

たぶん私はセックスのことを思い浮かべているんだな。

セックスについての本じゃないですよ。いっときます。
しかし、この本の著者が考えていることを、セックスという切り口から探っているひともあるだろうな、とは思うんです。セックスという行為にだけ端的にあらわれる身体-心の相とでもいうようなものがある。そこで、その行為から普段の身体-心とへさかのぼろう、そして人間どうしのつながりを見直そうとする考えかたです。
それが、この本では逆なんです。つまり、セックスなんてものをきっかけにせず、普段の「からだ」を人間として本来あるべき形に回復させてやることができ、それが同時に心をも回復させ、連動して「ことば」も生き生きしはじめる。というか、それは全部ばらばらなものではないんですね。しっかりとつながっている。結果として、生きたコミュニケーションが実現できる。おおよそですが、そんなふうです。


          1

著者竹内敏晴は生後1年ほどで耳を患い、ずっと難聴の障害を抱えてきました。『「からだ」と「ことば」のレッスン』(以下「レッスン」と書くことにします)から引けば、「私が、なんとか普通の人のようにしゃべれるようになってから、まだ二十年にならない」のです。彼は、そして演劇の仕事をしています。

私が、なんとか普通の人のようにしゃべれるようになってから、まだ二十年にならない。その以前に、私が苦しんでいた状態は、それが破れた後で初めて自覚できたことだったけれども、いわば、大きなガラスの壁≠ェ自分の目の前にあって、……(「レッスン」)

発声の練習をしているときに、突然それが破れていった過程は、拙著『ことばが劈かれるとき』(以下「劈かれるとき」と書きます)に書いた。他人にじかに私のことばが、つまりはおのれ自身が触れている、そして相手もじかに私に触れてくるという驚きと、よろこび。(「レッスン」)

とにかく初めの頃は、毎日毎日がお祭りだった。朝、人に出会う。「おはよう」と呼びかける。すると声がすっと相手(のからだ)に入る。相手の表情、というよりからだ全体がふうっと変容して「おはよう」と声が浮かび上がり、すうっと私の身にしみてくる。
わあ、これが「ことば」というものか! へえ、じゃあもういっぺん、とまたことばをかける。相手が近寄ってくる。ただそれだけで嬉しくてにこにこしてしまう。では次の人は? と私は躍るように歩いて行く。(「レッスン」)


そして、

ところがそのうちに、はてなと思い始めた。今までオレのほかの人は、みんな自由にうまくしゃべれるものだとばかり思いこんでいたのに、どうやらそうでもないのじゃないかということが見えてきたのである。
二人が話しあっている──と見えるのだが、一人が勝手になにか言いたいことをしゃべっているだけで、相手をろくに見てもいない。声は彼の前方に散らばるか、ときには足元に落ちたりテーブルの上ではねたりしている。それに対する相手もまたろくに相手の顔も見ずに、空中に声を散らばして自分の意見を言っている。二人の話は別々に空間を占有しあっているだけで、さっぱり相手のことばに答えていない。まして答えが相手のことばをもう一つ発展させる、という形にはまるでなっていない。
そんなありさまがたくさん見えてくると、いったい、人と人とがことばを交わす、話しあう、とはどういうことなのだろうか、と私は考えこんでしまった。ひょっとすると会話とか、さらに言えば演劇の世界においては決定的な要素である対話といったようなことは、実は生活の中であまり成り立っていないのではないだろうか?(「レッスン」)

というわけです。


          2

普段私たちが会話と思っているものは、実は会話になっていないんじゃないか。私たちは向きあいながらも、それぞれがてんてんばらばらに発声しているだけであって、自分の意志を相手に伝えていないし、伝えようともしていないんじゃないか。ということは、話の発展のしようもないし、これでひととひととの交わりといえるんだろうか。

そこで、彼の行なっているレッスンをひとつ紹介します。わけがわからないというひともあるでしょうし、なにかピンと来るというひともあるでしょう。

<話しかけ>のレッスンには、いくつかの形があるが、初めての人に体験してもらうには、四〜五人が床に坐り、めいめいの好きな方向を向いていると、ニ〜三メートル離れたところから、別の一人が、そのうちの一人に短いことばで話しかける、という形をとることが多い。
「話しかけられた!」と感じた人は手をあげる。聞き手の課題はこれだけである。その場に立ち会っている人々の課題は、話しかけ手が、だれを目指しているかを見ていること。
(「レッスン」)

そして、

レッスンの最初の段階の中心は「聞くこと」である。ところが、注意を集中して聞いてみると、「話しかけてくれた!」と感じたとたん後ろをふりむくとか、手をあげるといったことはまずめったにおこらない。そのことに、まずみんなあっけにとられるようだ。聞き手にしてみると、自分にカンケイない、ということをまざまざと感じた体験がはじめてなので、とまどってしまっているのだ。まわりで見ている人にとってさえ、話し手がだれを目指したのかはっきりしないことも多い。そこで立ち会っている私が、聞き手のひとりひとりにどんなふうに聞こえ、どんな感じがしたかをたずねてみる。(「レッスン」)

すると、

(1)「テレビでしゃべってるみたい」とか、「号令かけてるみたい」、「隣の人に話してるみたい」、「ただ自分でわめいている」、「ひとりごとみたい」など、聞き手の方に声が来ない、ただ話し手自身のまわりに止まっている、と感じる場合がある。結局のところ「私たちに話そうって気はないみたい」ということになる。聞いているうちに話し手自身がそれに気づいて、つまり、自分は話しかける対象から逃げているみたいだ、と言い出すこともある。
(2)「声はこっちに来るけど、ずっと手前で落ちてしまった」、「頭の上で爆発したみたいにひろがった」、「みんなに言ってるみたい」、「だれにも言ってないみたい」、「通りすぎていった」など。……声が近づいて来るのに自分に触れないので、聞き手がもどかしがっているのだ。
(3)「右の肩に声がさわったけれど、自分に言われた感じはない」、「こわごわ背中に触れてきた」、「背中の半分にだけさわって前へ抜けて行ってしまったから、左前の人に話したのかなと思った」などという言い方も出てくる。声が触れては来たのだ。
(4)「あっと思ったらふりむいていた」というのが、いちばんじかに「話しかけられた!」と感じた例だろう。他に「背中にどんと来た」「背中がぱっとあったかくなった」など。ただし、「声が来た」のと「話しかけられた」とは必ずしも同じことではない。(「レッスン」)

そこで、

話しかける、とは、ただ声が音として伝わるということとは別の次元のことだということだろう。(「レッスン」)

肩にさわった、とか、バシッとぶつかった、とか近づいて来たけどカーブして逸れていった、というような言い方で表現するほか仕方のないような感じ──即ち、からだへの触れ方を、声はするのである。(「レッスン」)

まわりで見、聞いている人々には、話し手がだれに向かって話しかけようとしているか見ていて下さい、と課題を出しておいた。話しかける人は、話しかける相手を見つめてことばを発するのがふつうだから、その視線なり見動きなりを見ていれば、だれにでも相手がわかりそうなものだが、いざ観察していた結果を尋ねてみると、ほぼ全員が一致して同じ人を指すということがめったにないことに驚かされる。(「レッスン」)

聞き手や観衆のこれらの意見を聞いている話し手の表情は見ものである。ひとつひとつにうなずいている人もあるが、たいていの場合は、ひとりひとりの発言にあっけにとられ、どうしてそのような判断をされるのか見当がつかないというふうに頭を振ったり、がっくりと首を垂れたり、「わからない!」と叫んだり、中にはもう他人のことばを聞きたくないといったありさまを露骨に見せてしゃがみこんでしまう人まである。(「レッスン」)

そこで、まず見ていた人々に、この人が話しかけているとき、どんなありさまだったか、気づいたことがあったら言って下さい、と尋ねてみる。なかなか明確な答えは返ってこないが、ときには、上体があちこちに揺れていて、あるいは視線がふらふらしていて、だれに向かって言おうとしているのかわからなかった、と言い出す人がある。また……(「レッスン」)

今度は話し手に、やってみた手応えと、自分がどんなふうに話しかけたか、特に姿勢をおぼえているか、について尋ねてみる。……しかし、やっているときになにを感じていたか、やり終わったときにどのような手応えがあったか、ということに気づいている人はほとんどない。(「レッスン」)

それをゆっくり尋ね返してゆくと、ぽつぽつと答えが返ってくることがある──実はだれに話しかけようか迷ってしまって、とりあえずAさんにしたんだけれども、あっと思ったらBさんの方にも気持ちがいっていたみたい、と言った人がいた。……(「レッスン」)


そして、

それぞれに対して、じゃあもう一度やってみよう、とか、私がその人の気づいていない身動きを指摘したり真似して見せたりして、少しずつ自分がどんな話しかけ方をしていたのか気づいていく、というふうにレッスンは進むのだが、……(「レッスン」

両手を後ろに組んで棒立ちになってしゃべる人。よく見ると、たいていはからだの重心は踵にかかっており、胸は後ろに退き、顎を突き出し、尻が落ちて腰は前に出ている。この姿勢は指摘されたり真似されたりすると、はっと気づく人が割合多い。(「レッスン」

ことばの最後(語尾)になると、すっと顎を退く、あるいは身を退く。中には踏み出した足が、語尾の音と共に規則正しくと言いたい正確さですっともとへ戻る人がある。つまりここで相手のからだにことばがしみこむという肝心の瞬間に、からだが、そして声もすっと後戻りするわけである。(「レッスン」

厄介なのは視線が定まらないのを自覚していない人が稀でないことである。この場合は、実は人を「見る」ということ自体ができなくなっている、と言った方がよい。チラチラと表面を撫でるように視線を走らせて、一瞬も止まらない、という例もあるし、視線が止まっているようだが、焦点をぼかしてしまって、くわしく吟味してみると、対象より手前か遠くへピントを当てている、といった行為が習慣化している例もある。(「レッスン」


          3

「話しかけ」ができるようになるまでレッスンはつづいていきます。
明確にでなくても、このレッスンの方向性みたいなものは読みとってもらえたでしょうか?
話しかけの場面での、それぞれのひとの立ち居ふるまい。自分では気づかない癖とか「こえ」の出しかた、あるいは姿勢などが問題にされます。「からだ」が相手に話しかけるための体勢をとっていないんですね。とっていないし、普段からどこかしら歪んでしまっている「からだ」ではその体勢がとれないんです。

「からだ」の歪みとはたとえば、

こえがなめらかに出ないことが、どれほどからだ=姿勢を歪ませるかを知るには、変声期の少年を観察してみればよい。私は山梨県の巨摩中学校でコーラスの授業に立ちあったとき、一年、二年、三年と並んだ男子中学生のグループを見て愕然とした。一年生は小学生とあまり違わぬのびやかな肢体、あどけない顔で並んでいる。二年生になると、個々にはっきりとした差を示しながら緊張が進行している。背が曲がったり、顎が上がったり、のどをしぼるために顔の筋肉をひきつらせたりする。三年生になると、ほぼ全員が、もはや均整のとれた姿勢をしていない。肩がどちらかへ傾く。首が仰むくか、うつむくか、左右いずれかへ傾くか、腕が突っぱっているか、脚が突っぱっているか。男がおとなになってゆくということは、かくもきびしく劇的なことなのかと、私は息をのむ思いでかれらを見比べたのだった。もちろん、これはこえの障害だけからくる歪みではない。だがこえと密接に関連した歪みに間違いはない。(「劈かれるとき」)

のどがすぐかれる。舌がまわらない。発音が不明瞭である。声帯が小さいらしい。鼻が悪いのじゃないか、舌が短いのだろうなどなど。千差万別に告げられる発声の障害は、一般に、発声や声楽の先生についてもまずなおることはない。……私の経験では、そのほとんどは緊張によるからだの歪みと、その遠因たるこころの傷を探りあてることによって治癒にいたりうる。(「劈かれるとき」)


ちらりとですが、「からだ」-「こえ」-「こころ」のつながりが書かれていますね。そして、「からだ」の歪みをとるためにいろいろな体操が考案されています。野口三千三というひととの共同の仕事では「ネニョロ」という体操があります。

二人組になって一人が床に仰向けになり、その足首をもう一人がつかんで軽く持ち上げる。そこで、野口さんはこう言う。──人間のからだは、普通こう考えられている。骨が中心にあって、そのまわりに筋肉がついており、それに支えられて内臓があり、いちばん外側を皮膚がつつんでいる。解剖学的に言えば確かにそうであるけれども、それは死んだからだの説明だ。生きたからだはもっと違った自由なとらえ方ができるのではないか。そしてこういうイメージを提出する。例えば、からだとは一つの皮袋の中に体液がいっぱいつまっているものだと想像してみたらどうか? それにぷかぷかと筋肉やら内臓やらが浮かんでいる──。ではやってみよう、ということばで立っている人が足首を持って軽くゆすり始める。小さな波動がユラユラと胴から首、腕と伝ってゆく。するとちょうど皮袋につめられた水が揺れるように、ゆすり方によっては、まことに複雑怪奇な形に変化する。ゆすられてみると、ゆらりとひどくいい気持になって、からだをまかせたまま、今まで味わったことのない感覚がからだに満ちてくるのを感じる。自分がとけていくみたいだ。固体であるという感じが消えていって液体がゆすれているだけになってしまう。そのうち自分がなくなってゆき、ただ「ゆすれ」だけがひろがって偏在しているみたいになる。(「劈かれるとき」)


          4

そんなふうで、著者はまず自分の「からだ」を見直していきます。すると、そのうちにいろんなことが見えてきました。

こうして体操をやっていると、からだの感じかたが変わってきた。……あらためて「からだ」と出会った──むしろ新しいからだが生まれかけている──という感じである。(「劈かれるとき」)

何ヶ月かたって、レッスンをしているとき、私はふと気がついた。──自分のからだの動きが向かいあっている相手に移って、新しい動きができるようになる、あるいは相手の動きが自分の方に移ってきて、相手のからだの歪みなりとどこおりなりが感じとれてくる、そして、自他が激しい気合の交錯の中で微妙に反応しあうとき、めざましい変貌が起こる。このときは、自とか他はもうなくなっている。他の動きは自と一つに融けあい、自の呼吸が他を生気づけている。(「劈かれるとき」)

こんなレッスンを、大ぜいを相手に、次から次へにやっているうちに、ほんとうにこえが出るとはどんなことかが、だんだわかってきた。(「劈かれるとき」)

こういうレッスンの過程で、私は相手のからだの中の状態がすうっと見えてくるようになった。見える、というのと少し違う。相手のからだを見ているうちに、私のからだが動きだして相手のからだの形、内の動きにシンクロしてしまう。すると、こえがどこでつっかえて出てこれないでいるか──のどの奥をしめられているので、ちょっと横につまっているとか、固めた胸の中に閉じこめられてほんの指先だけ外に出てきている感じだとか、からだの中で感じられてくる。しまいに、私には、こえが生きもののように思われてきた。だれのからだの中でもこえがちゃんと生まれて外へ出たがっている。それなのに出してくれない。私はつまったこえの人を聞き、見ていると、こえが泣いているような気がしてたまらなくなり、なんとかしてやりたくてむずむずするようになった。「こえの産婆だね、まるで」とある友人が言った。(「劈かれるとき」)

ここで再び「話しかけ」に戻ってみましょうか。
AがBに話しかけるという例をとります。

話しかけるということは相手にこえで働きかけ、相手を変えることである。ただ自分の気持をしゃべるだけではダメなのである。一般にはことばは感情の発露だと考える傾向が多いようだ──もちろんそういう場合もある。だがそれは自分のからだが閉じられている場合である。言うだけ言えばいい。相手がどう思おうと、言いっぱなし、という場合が多いのは、からだが他人(他者)に向かって劈いていないのだ。だがことばが他者との間に成り立つときには、まず働きかけ(行動)として機能する。働きかけること、感情を忘れること、対象にふれようとすることだ。(「劈かれるとき」)

どう変わってほしいのかがはっきりしないと相手は変わらない。
さまざまに言い方を変えても、相手は動かぬ。(「劈かれるとき」)

話しかけるとは、B(のからだ)に話すこと、他のだれでもない、まさにBに話すのだ。そしてBにとっては、まさに、私に、話しかけられているこえを聞くのである。それは名前によって判別したりするのではない、まさに自分のからだをめざし、ふれ、突き刺し、動かしてくるかれのからだを受けるのだ。(「劈かれるとき」)


さて、ここまで読んでもらってようやく「ああ、そういうことだったのか!」と、なにかが焦点を結んできた方もあるんじゃないかなあ。


          5

「話しかけ」にはじまったレッスンはだんだんに進んでいきます。

日常の行為において私たちは、どれほど「つもり」に堕していて「ほんとうにふれて」いないか。その例は「話しかけのレッスン」でわかる。もっと顕著な例をあげると、マッサージをする場合がある。これはまさに他人のからだに「ふれる」わけだが、この場合でさえ、教わった通り自分がやっているかどうかばかりに心をとらわれて、ただ一所懸命力を入れて押しまくっている人が少なくない。マッサージを受けている相手側から感じると、こちらの筋肉の状態をうまく受けとめ、ほぐすいとぐちを見つけようとする心づかいがまるでない。無二無三に押してくる。これも、肉体はふれていながら、実はマッサージする主体は自分の関心事の内に閉じこもってしまっていて、相手のからだに「ほんとうにふれて」はいないのだと言える。(「劈かれるとき」)


……………………………………………………………

まだまだあるんですが、この辺で切り上げます。
最後に、レッスンの全体をちょっと俯瞰してみましょうか。
著者は「自分のレッスンの基礎的な部分」についてこう書いています。

(1)ひと(他人)に触れきれない自分に気づく。
(2)みずからのからだのこわばりに気づく(「身構え」に気づく)。
(3)からだをときほぐす。
(4)感じるままに動く。
(5)ものに触れる。
(6)ひとに触れる。
(7)他者に働きかける。
(8)ことばで働きかける。
(9)からだ全体が深くいきいきと動く。
(10)上演を試みる。
       (「レッスン」)


おすすめいたします。一読の価値あり、です。











クラッシュ
絶望を希望に変える瞬間

太田哲也

幻冬舎 1600円+税
表紙に写された黒コゲのヘルメット。ただれてベロリとめくれたバイザーに思わずぞっとする。これは「日本一のフェラーリ使い」と呼ばれた1人のレーサーの地獄からの生還と、新たな人生を見つけるまでの物語です。


あのニュースを覚えている方も多いと思いますが、1998年の全日本GT選手権で、太田選手は多重事故に巻き込まれました。当日、富士スピードウェイは雨天。ところが、そのオープニングラップで先導するオフィシャルカーはウェット走行での先導としては考えられないスピードで疾走。舞い上がる水しぶきはウォータースクリーンとなって、後続車の視界を閉ざしました。視界0で時速200km/hの走行。それは、前方の車のテールランプだけが頼りの世界。ハイドロプレーニングはタイヤのグリップ力を溶かすように奪ってゆく。

事故はまず、太田選手の前方で起きました。白いポルシェがスピン、そしてコースアウト。車は続々とブレーキを踏み、あるいはステアリングを右に左に切りますが、テールランプだけに頼った視界の走行では、後続車になるほど反応は遅れます。太田選手は前方の車との衝突を避けるため、左に進路をとりました。しかし、そこにはスピンアウトしたポルシェが立ち往生していました。クラッシュは爆発をともない、太田選手は長い時間、炎の中に閉じ込められました。最初に救助に駆けつけたのは、同じレーサーの山路選手でした。真っ先に消火活動をすべきオフィシャルが現場になかなか近づけなかったのです。

山路選手の機転、その後の病院とそのスタッフにより、本当に奇跡的に命だけはとりとめた太田哲也ですが、その後も地獄は彼の体と心を灼きつづけます。顔面、右手をはじめとする全身の熱傷、脳・精神へのダメージ、治療による苦痛、生きつづけることの不安、そして自殺への渇望。太田の顔は炎によりケロイド状に溶けてしまいました。自分の顔がなくなる、その恐怖はどれほどのものであったでしょう。
※ この辺りのこと、以前紹介した「ダーティ・ホワイト・ボーイズ」(扶桑社文庫)のなかで、リチャードが悪党ラマ−のために考案した入れ墨のデザインと会話するシーン(P.552〜)を思い出してしまいました。

痛みや不安と戦う太田とともに、彼を支える家族や医師、看護婦らスタッフも戦いました。元F1レーサーのニキ・ラウダの10倍の熱傷と不安にいらだち、自暴自棄になる心を抑えきれずにいる太田。彼に「私と再建医学を信じてくれ、君ならできるはずだ」と説く野崎教授。「プロフェッサー」の章は必読です。

さて、太田哲也は一つ奇妙な体験をします。彼は「死神」(?)に会ったのです。その正体は何でしょう。ぜひ読んで確かめてください。










学問がわかる500冊 1・2

朝日新聞社 編

朝日新聞社 各952円+税
インターネットが普及して、「何か調べたい」って時にはかなり便利ですが、知識の宝庫としての本はまだまだ強みを失っていません。ところが、インターネットほど簡単に、探すものを見つけられないのもまた事実。

そこで、「この学問にはこんなよい本があるよ」と、ごくごく一部ですが、紹介しているのがこちらです。白黒ですが各本の写真と、内容の解説があり、いまは必要がないけれど、いつか読んでみたい本がたくさん掲載されています。渋めのオススメ本。











TOGETHER
2002 ワールドカップBook

中田英寿・洪明甫

講談社MOOK 1600円+税
2002年5月31日、日韓共催のW杯 KICK OFF までとうとう1年を切ってしまいました。我らが日本代表は本当に大丈夫なんでしょうか? ホスト国が決勝リーグに残れなかったら……。先日のフランス・スペイン戦の敗戦で日本の実力がわかってしまい(?)、期待よりも不安が大きくなっていくばかりですが、コンフェデ杯は地元開催なので何とか決勝リーグにまで残って好成績をあげてほしいところです。そんなこの時期に出版されたのがこの本で、日韓の顔・中田英寿と洪明甫が互いにあてた手紙が紹介され、日本と韓国の現状や、2人のサッカー観、そして一緒にプレーしたベルマーレ時代のことが書かれています。その他にも、日韓のいままでの歴史や、日韓共催が決まるまでの舞台裏や、日本代表監督論、W杯の楽しみ方など盛りだくさんです。最近サッカーに興味をもった人も、これを読んでサッカー通になろう。あなたも12人めの日本代表です!














1998 ホームランの夏

マイク・ルピカ 出村義和 訳

 ベースボール・マガジン社 2500円+税
’98のマグワイヤとソーサのホームラン王争いは、日本でも連日ニュースや中継が行なわれていたので、全米の熱狂ぶりは伝えられていたが、この年は他にも新人ウッドの1試合20奪三振、ウェルズの完全試合、リプトンJr.の連続試合出場ストップといった話題も多く、本当に素晴らしいシーズンでした。
この本では、’98のシーズンを通して著者と著者の父と3人の息子たちがホームランの夏に感動していく様子を描いています。アメリカにおけるベースボールへの愛情とは、世代から世代へと引き継がれていき、生涯にわたって心のなかに持ちつづけられるものである(筆者談)ということが、親子の会話や思い出とともに語られます。単なる記録について書かれた本ではなく、本当にオススメです。今シーズン、日本でも’98のアメリカに負けないほどのMLBフィーバーがつづいていますが、ルピカ親子のように、いつまでも語られる思い出をたくさんつくってほしいものです。










クレジットカード&デビットカード
とことん活用術


岩田昭男+プラスチック・カンパニー

かんき出版 1300円+税
この本はクレジットカード等の最新情報とともに、支払方法や特典サービス、ライフスタイル別のカード選び、また、手持ちカードのリストラの仕方、海外旅行でのカード術、カード犯罪への対策まで、クレジットカードを活用する際に知っておくべきことがPART1〜PART7まで50項目にわたり大変わかりやすく書かれています。

PART1 クレジットカードの仕組みを押さえる
・ カード決済の仕組みはこうなっている
・ 国際ブランドの違いをざっと押さえよう
・ ネット上でのカード利用は安全か   他3項目

PART2 カードごとの特徴を知っておこう
・ 提携カードにはどんなものがあるのか?
・ ゴールドカードにはどんな特典があるのか
・ デビットカードの仕組みはどうなっているのか   他2項目

PART3 どんなときに、どんな使い方ができるのか?
・ 見せて割引、使って割引になるサービスがいっぱい
・ ポイントサービスで得する使い分け術
・ 資産運用でも差がつくカードの使い方
・ デビットカードの賢い利用法は?   他4項目

PART4 〈ライフスタイル別〉あなたに最適な2枚のカード
・ あなたはどんなカードを持てばいいか
・ カードを何枚持つのが正解か   

PART5 1枚のカードをとことん使いこなす裏ワザ
・ 締め日の翌日を狙ってトクをしよう
・ ボーナス一括払いの極意
・ 郵貯ジョイントカードをとことん使いこなす
・ マークを見せるだけで最大20%割引も!?   他5項目

PART6 海外旅行でトクするカード活用術
・ 海外旅行こそカードを使う価値がある
・ 空港で受けられる会員サービスもいろいろ
・ トラブルでわかる、海外で有能なカード
・ 海外旅行傷害保険の補償内容とは?   他6項目

PART7 カードトラブルはこうして切り抜ける
・ カードの紛失・盗難のときに備える
・ ぜったい安心な暗証番号の作り方
・ カードを偽造使用されないためには?   他3項目











住宅資金&ローン
完全チェックリスト



山下和之

日本実業出版社 1500円+税
マイホームを購入することは一生に一度ともいえる大きな買い物だと思います。それだけに失敗はもちろんの事、後悔もしたくないと思います。この本は資金計画の立て方からはじまり、少しでもトクする住宅ローンの選び方や有利な支払い方法までわかりやすく書かれていて、また、ライフスタイル別のポイント等が、チェックリスト形式(1項目を2ページ)で見やすく解説されています。

第1章 【ローンを組む前にここをチェック】

項目   「こんな家に」「間取りは」という前に、まずは資金計画
     公的資金を利用する人はつなぎ融資にご注意を!
     価格・金利・税制・供給の4つが買いどきのポイント
     あなた自身の購入環境は万全か
     頭金は購入価格の2割を原則とせよ
     諸費用は新築で3〜5%・中古は5〜10%
     申告は贈与を受けた年の翌年に   他18項目

第2章 【住宅ローンの選び方をチェックする】
項目   出発点は固定金利型の公庫融資・年金融資
     金利だけにひかれてローンを選んではいけない
     公庫融資は土地購入には使えない
     固定金利型と2段階金利型、どちらがおトク?
     銀行の優遇金利を見逃すな
     公庫融資の申し込みはこうする   他18項目

第3章 【ローンの組み合わせのチェックポイント】
項目   住宅ローン組み合わせの基本原則はこれだ
     あなたは、いくらまでローンの返済ができるのか
     自分で実際に資金計画を立ててみよう
     定年を意識した世代の資金計画
     繰越控除とローン控除は併用できる  他22項目

第4章 【住宅ローンを組んだ後のチェックポイント】
項目   住宅ローンを早く終わらせるにはコツがある
     あなたのローン控除額はこうなる
     借り換えにもルールがある
     公庫融資には救済策が用意されている
     保険つきのローンで万一に備える   
     困ったときの相談先はここに   他19項目













第11回 たとえ血はつながっていなくても・・・

 最近幼児虐待や家庭崩壊などのニュースをよく目にします。ちょっと悲しいですね。コミックの中にもそういう問題を取り上げている作品は多くありますが(特に最近は)、今回は敢えてその逆の

≪理想の家族像≫
を描いた作品を挙げてみました。
今回紹介する作品に登場する家族は血のつながっていないメンバーがいる家族ばかりです。

 これらの作品を読んでみてください。そして考えてみませんか?

 『フィクションだから』って言う前に。






ファミリー!

渡辺多恵子

小学館 全6巻 各562円+税
 まずはタイトルからして家族モノ!って感じの『ファミリー!』から。
私の高校時代に同期の女の子たちが盛んに『面白い!』と言っていた作品なんですが、ようやく最近になってはじめて読みました。

 ある日突然、人が良いだけがとりえのアンダーソン一家に1人の少年と1匹の犬がやってきます。最初パパの隠し子と偽っているんですが、それがばれたのをきっかけに本当の家族として受け入れられていく、といった感じで始まるこのマンガ。

いやぁー目が潤んでしまいました、不覚にも。しかも電車の中で(笑)。


 最初はふつうのアメリカンファミリーモノだと思っていたんですが、家族のあり方というか、それも含めた≪人間性≫みたいなものを教えられた作品でした。




狼には気をつけて

遠藤淑子

白泉社 2巻まで 各390円+税
 続いては『狼には気をつけて』。これも最近読んだ作品です。

 主人公アレクサンドラは大財閥の天才お嬢様。彼女のおばあさんが財産を譲るにあたって1つの課題を出します。それを手伝うために、運が良いというだけで雇われた、もう1人の主人公フォレスト。薬におぼれてしまった父、財産を付け狙う親戚縁者。本当に血のつながった家族がこんな感じなのでだんだん孤立していくんですが、そんなときにフォレストが唯一の家族として一緒に暮らしていく、といった話。

 遠藤先生の作品は決して絵がうまいというのではないんですが、他の作品にも通じて言えるのが温かみのある作品であるということ。

 絵が綺麗(ウマイ)作品じゃないとダメ!と思っている人も是非読んでみてください。そんなことどうでも良くなりますから・・・





ハッピー!

波間信子

講談社 14巻まで 400円+税
  最後は家族が人間ではなく動物だった場合。

 この『ハッピー!』はTVドラマにもなった作品なので御存知の方も多いと思いますがドラマになっていた部分以降が更に面白く、感動してしまうので紹介しました。

 ドラマのあと主人公の香織は赤ちゃんを産みます。子供を育てるにあたり目の見えない彼女は不安でいっぱいになっていく。そんなときに支えになったのが旦那さんと盲導犬ハッピー。現在では2人目の子供も無事出産して大忙しの毎日です。

 赤ちゃんが誕生してから、以前よりも家族の在り方、命の尊さに重点が置かれるようになりました。特に2人目の子供を妊娠してからはより色濃くなっています(13〜14巻あたり)。

 理想と言ってしまえばそれまでですが、こんな風に考えることが少しでも出来るようになればもう少し幼児虐待のニュースが減るのではないかな?と思っていつも読んでしまいます。

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