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2001年1月
ハイ・フィデリティ(ニック・ホーンビイ) リヒァルト・ワーグナーの苦悩と偉大(トーマス・マン)
これがニーチェだ(永井均) ストライク・ゾーン(ジム・バウトン/エリオット・アジノフ)
不肖宮嶋 空爆されたらサヨウナラ(宮嶋茂樹) 小さい 犬の日常(ボビー・N・キタイン/津田直美)
オヤジにならない60のビジネスマナー(中谷彰宏) 魂のラリアット(スタン・ハンセン)
コテコテ大阪弁訳「聖書」
(ナニワ太郎&大阪弁聖書推進委員会 訳)
最強のプロ野球論(二宮清純)
おいしい煮物 和・洋・中 入門 おいしいソース 人気のたれ ドレッシング
超私的まんが道
社会不適格者の穴(田村マリオ) キリンジ(乃木坂太郎)
ショー☆バン(森高夕次・松島幸太朗) .


「娘にあげるレコードをさがしてるんだ。誕生日にね。<アイ・ジャスト・コール・トゥ・セイ・アイ・ラブ・ユー>っていうやつなんだが、あるかね?」
「いや、悪いけど、ダメですね」
「どうしてだ?」
「センチメンタルなだけの安っぽいクソだからですよ。ここが<アイ・ジャスト・コール・トゥ・セイ・アイ・ラブ・ユー>なんてもんを売ってるような店に見えるかってんだ。だから、仕事の邪魔をしないで、とっとと帰ってくれないかな」
ハイ・フィデリティ

ニック・ホーンビィ 森田義信 訳

新潮文庫 705円+税
さて、上の引用を読んで吹き出したひとがどれだけいるんでしょうか? わはは、あわれ、スティーヴィー・ワンダー。
でもね、これがこの小説のよいところでもあり、弱点でもあることはたしかですね。いっときますが、すっごくおもしろい小説ですよ。作者の腕はいい。それでもね、<アイ・ジャスト・コール・トゥ・セイ・アイ・ラブ・ユー>を知っているひとといないひととでは読みかたにずいぶん差がついてしまうんじゃないか、と心配します。まあ、知らないひとでももちろんなにかとんでもなく間抜けな曲なんだろうなということは読みとれるわけです。

同じような例をもうひとつ。

普通なら、家庭の在庫一掃処分などに興味はないのだが、この女性はある程度レコードをわかっているようだ。……これはどうも、息子が家を離れたとき置いていった傷だらけのエレクトリック・ライト・オーケストラのレコードを半ダースほど売りたいというのではなさそうな感じがする。

ここでエレクトリック・ライト・オーケストラ(ELO)というのがどういう評価をされているか、それは読みとれますよね。大いにばかにされています。ちなみにそのELOのアルバムを私は半ダースどころかもっとたくさん持っています。余計なことながら、ELO、なんと10数年ぶりにニュー・アルバムが出るらしい(2001年4月予定?)ので、私そのときまでは生きていなきゃね、と思っているくらいなんですが。でも、ELOがこの小説でどうしてばかにされているのか、それはわかります。で、この小説を読むとき、そういうのがわからないともったいないなって気がするんです。(とかなんとかいいながら、私、実は単にELO新譜の話題をもちこみたいだけだったりして)

……いやいや、本題に入りましょう。読みながらの私の反応も書いときます(うるさいかも)。

主人公「ぼく」=ロブ・フレミングは元DJで現在は中古レコード店の店主。従業員にはバリーとディックっていうふたりがいる。

ぼくら三人は、仕事をしながら遊んでいるようなものだ。今日も帰る支度をしながら、A面一曲目トップ・ファイヴ・リストの作りあいをしている。(ぼくのリスト:ザ・クラッシュの《ザ・クラッシュ》から<ジェニー・ジョーンズ>。ブルース・スプリングスティーンの《ボーン・トゥ・ラン》から<サンダー・ロード>……)

「ぼく」はもうほんとにレコードのとりこ。人生と切り離して考えることなんかできないほど。同化しているといっていいのかな? でも、もしかして、そうなると、レコードだけあれば「ぼく」っていう存在はいらないんじゃないの?(あ、これは余計な感想)

ぼくは、自分自身を必要以上に複雑にしてきた。ここには二千枚からのレコードがある。ぼくでなければ──もしくは、ロブ・フレミング学の博士号でもなければ、なにがどこにあるか見つけることはできないだろう。もしジョニ・ミッチェルの<ブルー>が聞きたくなったら、一九八三年の秋、ある女の子にあげようと思って買ったレコードだったことを思い出せばいい。なぜ彼女にあげなかったのかは、ここでは明かしたくない。とにかく、そういうことを知らなければ、誰にも特定のレコードのありかなどわからないわけだ。ぼくに頼んで、ひっぱりだしてもらうしかない。そのことが、なぜだか、とても心地よく感じられる。

そんな「ぼく」と同棲していたローラって娘が出ていってしまうところから話は始まる。

ローラと「ぼく」のやりとりはこんなふう。

ローラはここ何か月かでおなじみになった、あの表情を浮べはじめる。とほうもない忍耐と出口のない鬱屈とを同時に感じさせる表情だ。認めたくはないが、ぼくのせいだろう。そんな表情なんて、以前の彼女には必要なかった。

(その「表情」は私、よく知ってます。よ〜く知っています。)

「ぼくに言わせればね、そうさ、バリーとディックとぼくは決めたんだ。人生をまじめに生きてる男は必ず──」
「五百枚以上のレコードを持ってる。わかってるわ。何度も何度も聞かされたもの。でもわたしはそうは思わない。レコードなんて一枚も持っていなくたって、まじめに人生を生きてる人はいるわ」


出て行くローラが荷物をまとめますが、そのときの会話。

そして彼女は一枚もほしくないと言う。
「でもきみのレコードなんだよ」
「でもほんとうはそうじゃないでしょ? わたしのために買ってくれたものだってことは、わかってるわ。ほんとにうれしかった。でもそれは、あなたがわたしを自分の世界に引きこもうとしてたときのことでしょ?」


どうです? その他にも……

「もちろんわかってるわよ。ひとつはウサギについての歌で、もうひとつはブラス・バンドが入ってる曲」
「ブラス・バンド! ブラス・バンド! ホーン・セクションって言うんだよ! ああ、もう最悪だな!」

「でも、たかがポップ・レコードよ。どれがどれよりいいかなんて、誰が気にするの? 気にしてるのはあなたとバリーとディックくらいでしょ? わたしにしてみれば、マクドナルドとバーガー・キングのちがいを議論してるようなものだもの。ちがいはあると思うけど、でもわざわざ、どこがちがうかなんて考えたくないわ」

なんとなくわかってきましたよね。そういう事情です。
(「どれがどれよりいいかなんて、誰が気にするの?」って、私も気にします。作品のよしあし≠ニ受け手それぞれの好み≠ごっちゃにされたりすると、とっても頭に来ますしね。「人生をまじめに生きてる男は必ず五百枚以上のレコードを持ってる」という主張もよ〜くわかります。私の場合、レコードじゃないけど)。

「わたし、あなたにあこがれてたの。DJだったし、カッコいいって思った。それにボーイフレンドがいなかったから、ほしかったの」
「ってことは音楽には全然興味がなかったわけ?」
「あったわよ。ちょっとはね。でもあのころのほうがあったと思う。人生ってそんなもんじゃない?」
「でも、あのさ……それがぼくのすべてなんだよ? ほかにはなんにもない。そこに興味がなくなったんだったら、全部に興味がなくなったってことで、いっしょにいたって意味がないってことじゃないか」

でも、あのさ……それがぼくのすべてなんだよ? ほかにはなんにもない。


あわわ……このせりふ、私、よ〜く知ってます。よ〜く、ね。いやになるほど。)

(………………………………。)

(えっ? ああそうだ、作品紹介をしていたんでしたっけ、そうだそうだ。ええと、)

ええと、ここまでの紹介はポイントを絞りすぎました。

ローラが出て行ったあと、彼女のことを気にかけながらも「ぼく」は別の女性とつきあったり、昔別れた何人かの女性に会いに行ったりと、結構いろいろ動きまわります。「へえ、男ってこんなふうに感じるものなのか」とあきれる女性読者も出てきそうなストーリー、とでもいえばいいでしょうか。登場人物たちはみんないきいきしていて、作品全体の雰囲気もいい。豊かなものです。おばかな恋愛小説ではないです。おまちがいなく。映画がもうちょっとで公開らしいんですが、観てもいないうちにいうと、きっと小説の方がいいでしょうね。小説の出来はそう思わせてくれるほどにいいんです。

ところで、同じ新潮文庫からこの映画のシナリオも発売になりました。ちょっとみたら、どうやら原作どおり、カトリーナ・アンド・ザ・ウェイブスの<ウォーキング・オン・サンシャイン>がかかるらしい。この歌好きなんですよ。カトリーナっていうのがめちゃくちゃ威勢のいいお姉ちゃんなんだなあ。

いかが?











……これほどの重荷を目的地まで運んで行くことができるとは誰にも信じられなかったような人物でした。それはいつもすぐ疲労困憊の極に達したと感じ、自分が元気だと感じることは例外でしかないような人物だったのです。……自分は『タンホイザー』の完成までとても生きられないだろう。彼にはそんなことは信じられません。三十六歳の時には、『ニーベルング』の作曲計画を実行に移そうとすることなど彼には不遜と思われるのですし、四十歳の時には「彼は毎日死のことを考えています」──のちに七十歳になんなんとして『パルジファル』を書くことになるあのヴァーグナーが、なのです。


一日に二時間。つまり、日々これほどわずかな仕事時間で、少なくとも時にはそういう時期もあったのに、あれほど巨大な生涯の仕事(ライフワーク)が積み上げられたわけです。いつもすぐ疲労困憊してしまう体力と闘いながら、なのです。
講演集
リヒァルト・ヴァーグナーの
苦悩と偉大

他一篇

トーマス・マン 青木順三 訳

 岩波文庫(2001年1月現在品切れ)
苦悩と偉大の世紀、十九世紀を完全に体現するかのように、苦悩と偉大に満ちて、リヒァルト・ヴァーグナーの精神像が私の眼前に立っております。……彼の作品に対する愛を、十九世紀全体に対する愛から区別することは、私にはほとんどできません。

トーマス・マンらしい冒頭のことばです。すでに21世紀ですが、あらためて驚くのは、もう19世紀ととなりあわせじゃないってことですね。私が生まれたとき、おとなりの19世紀まではほんの60年あまりの距離でした。マンのこの講演とは30年ほどの近さ。ってことは、マンはこのとき、彼にとってだいたい30年くらい前までつづいていた時代を話題にしていたんですねえ。うーん、いまじゃトーマス・マンなんていったって誰も知らないわけだ。でも、ヴァーグナーなら知っている? 少なくとも名前くらいは。とはいえ、「ニーベルンクの指輪」(「ラインの黄金」→「ワルキューレ」→「ジークフリート」→「神々の黄昏」の4部作。これ上演に各1夜ずつかかります。計4夜。)ってきくと、松本零士のコミックだと思ったりするんだねえ。……しかし、気をとりなおして、と……。豆知識。ヴァーグナーは自分の作品をオペラとは呼びません。「楽劇」といいます。台本も音楽も全部自分で書きました。彼は「楽劇」を、音楽と文学と美術と演技の総合芸術だと考えていました。

この岩波文庫ではトーマス・マンのふたつの講演が収められています。

「リヒャルト・ヴァーグナーの苦悩と偉大」
「リヒャルト・ヴァーグナーと『ニーベルングの指輪』」

(表記はそうなっています、ワーグナーではなくヴァーグナー、ニーベルンクではなくニーベルング、ワルキューレではなくヴァルキューレ)。

ものすごく長くなりそうなんで、ポイントを先にいっときますか?

これ、何回も読んでる私がいうんですが、実はヴァーグナーのことはニの次なんですよ。メインはなにかっていったら、講演してるトーマス・マン自身。私はマンの声がききたくてこれを読む。
表向きはヴァーグナーってひとを取り上げて、「芸術家」の生理とか制作方法を語るんですが、実はヴァーグナーに仮託した自分自身のことをマンはしゃべっている。別の講演でも「ゲーテは……」なんかいいながら、実はそれ「私は……」だったりする。ほんとはヴァーグナーはどうでもよくて、ただ自分のことを語るため、ダシに使っただけってふうにも読めるわけです。別ないいかたをすれば、ヴァーグナーっていうモデルを使って自分自身を理解する、そんなことをやっているんでしょう。

…………………………………………………………
あるひとがある作品・ある作家をどんなふうに受け取ったか?
そのひとが熱烈にそれらの作品・作家をほめたり、引用したりするなら、それはそのひと自身の信条告白かもしれません。
他人にそれらの作品・作家をけなされようものなら、そのひとは自分自身がけなされたと思うかもしれません。
だからみなさん、けなしかたには注意しましょう。中途半端に「そんなのひとそれぞれの好みでしょ?」なんていっちゃいけません。それでも「まずい!」という状況になったら、相手には
「ハイ・フィデリティ」を読ませましょう。これは効きます。
…………………………………………………………

マンはヴァーグナーのいろんな弱点や矛盾とされていることをこれでもかってくらい並べて、いちいち弁護していきます。めちゃくちゃなひとだと非難されがちなヴァーグナーの生涯や作品はこれこれこういうわけで首尾一貫していたんですよ、みなさん、というマンの主張は、マン自身の自己正当化でもあります。

たとえば、ヴァーグナーってひとはなんだか素人っぽいというふうにマンは指摘します。(きっとマン自身がなにかそういうコンプレックスをもってたんだな、と読めます。しかし、ここはヴァーグナーの話をしましょう)。

音楽と言葉と絵画と演技を合わせれば唯一の真なるものが生まれ、あらゆる芸術の憧憬を満たすものが生まれるなどという考えはいったいどうしたらいいでしょう。

あきれながらマンはそういいます。それは素人の発想だ。

ヴァーグナーの音楽が演劇的な素材として用い、これを補完して詩作品にまで高めた台本がそもそも文学でないのと同様に、ヴァーグナーの音楽はそもそもまったく音楽ではないのです。……その台本が音楽的に構想されているのと同様、こちらは文学的に構想されているので……

ヴァーグナーの書く台本はそれ自体では文学とはいえない代物で、音楽と組み合わさってこそはじめて生きてくるのだし、彼の音楽もまた台本なしには聴けない性質のものだ。そんなふうにして考えてみると、彼はいわゆる芸術家ではないのだ。ヴァーグナーというのはまったく偉大な素人なんだ。素人の発想からの自主大企画を大真面目に実践してしまったんだ。しかし、台本と音楽とが統合されると、ものすごく見事な作品になっている。これこそが芸術家ヴァーグナーなんだ。

上演するには4夜にわたってしまう長大な劇なんかをですよ、当の上演の見込みもまったくないまんまに書いてしまったひとなんですよ。長い年月をかけて。しかもその間にも大作「ニュルンベルクのマイスタージンガー」や「トリスタンとイゾルデ」なんかを生み出しつつ。この芸術バカ、芸術家の域にまで達してしまった素人の偉さをマンは実に巧みに語っていきます。この語りくちが魅力的。

それにつづけて、ヴァーグナーの制作作業が語られます。
いわゆる芸術家っていうと、なにかこう神がかったひらめきで(生活よりは芸術を最優先にし、そのためならドラッグ使用もいとわず、危ない感じで)作品をばーっと書いてしまうというイメージですが、その正反対なのがヴァーグナーのやりかただ、とマンはいいます。もっと全然地味で堅実な営み。それがいちばん上にあげた引用部分。ヴァーグナーは職人のようにせっせせっせとわずかずつ仕事を進行させていきます。体力もひらめきもわずかなんですが、とにかく毎日小さな仕事をする。それを積みあげていく。しょっちゅう愚痴をこぼしながら。芸術に関わるなんて不幸です不幸です不幸です。

芸術から解放され、創造せねばならぬという桎梏から免れ、生きることを許されて幸福になるという夢想は、ヴァーグナーの手紙には何度も何度も繰り返して現われます。

さて、辟易されるのを承知でまたちょっとした引用を。

これは逃亡の衝動なのだ。遠いところへの、あたらしいものへのあこがれなのだ。解放されたい、重荷をおろし、万事を忘れさりたいという欲求は逃亡の衝動なのである。──仕事から逃れよう、かたくなで冷静で、しかも情熱的な日々の献身の場から逃れようとする衝動なのである。

ふつうの人間ならよく浪費したり、なにかに熱中したり、大きな計画の実行を平気で延期したりする年齢になっても、四十になっても、五十になっても、彼は早朝に胸と背中に冷水をかけることで一日を開始して、それから、一対の銀の燭台にのせた大きなろうそくを原稿用紙の向こうに立てて、睡眠中にたくわえた力を、午前のニ、三時間のあいだに熱烈に、良心的に、芸術のためにささげるのだった。事情を知らぬ人たちが、『マーヤ』の世界や、フリードリッヒ大王の英雄的な生涯がくりひろげられる雄大な叙事詩を、結集した力と長いひと息のもとにできあがったものだとおもうのも、むりもないことであった。だが、この思いちがいこそ、むしろ、彼の道徳性の勝利を意味しているのである。実際のところは、これらの作品は、何百というインスピレーションを毎日小きざみに積みあげて大をなしたものであった。

「みなさん、アシェンバッハは昔から、こんなふうに暮らしていたのですよ」──そういって話し手は左手の指をぐっとまるめて拳骨をつくった。──「一度もこんなふうになることはなかったのですね」──そういいながら指をひらいて、手を椅子の寄りかかりにぐったり垂らしてみせた。まことに評し得て妙である。アッシェンバッハの生活が果敢であり道徳的であるゆえんは、本来はけっして頑健なほうではないのだが、絶えざる緊張を職責としていて、しかも、生まれつきそのようにできているのではないという点にあるのだった。


上の3つの引用はマンの小説「ヴェニスに死す」(野島正城訳)からのものです。(重要なのは「道徳」とか「道徳性」ってことばなんですが、ここでは触れないことにします)。また、これはほんとうに自分自身の仕事を語った文章でも、「神聖な午前」などといってマンは同じ方法を述べているんです。いかがでしょう? 

この講演の魅力は、芸術家の生理みたいなものがとても興味深く語られていることです。「ニーベルングの指輪」がどのような過程を経て完成へとむかったか。ヴァーグナーはまず台本から書いていくひとなんですけど、この4部作、実は最後の「神々の黄昏」から順々にさかのぼって出来ていくんです(上の矢印の逆ですね)。それというのも、彼のいちばん描きたかった部分を作品化するには、それの前にあれと、あれの前にそれ、というふうに前史をどんどん描き込んでいかなきゃならなかったからなんです。そうやっていって、気がつくと、4夜にわたる上演をしなくてはならない羽目に陥ってしまったというわけです。この経緯を語るマンの話術がものすごく素晴らしい。内容ももちろんですが、その話術を堪能。ところで、マンの最初の長編小説「ブッデンブローク家の人びと」の成立はどんなふうだったかといえば、小説の最後に出てくる男の子を描こうとして、結局何世代にもわたる家族の物語にふくれあがってしまったんですね。

では、いよいよ終わりに、その「ニーベルング」成立のくだりの一部(!)を盛大に長く引用(しかし、感動的な部分!)しましょうか。(って、ここまで読んでくれたひとがいるのかね? いたとしても、この本品切れなんだよ。)

この物語は、芸術家というものが自分の作品について元来いかに知るところが少ないか、芸術家は自分が関わる作品自体が持っている我意を最初はどれほど理解していないかということを知るために、ぜひ追体験しておくべき物語であります。──すなわち、芸術家は、その作品がそもそもどんなものになっていこうとしているのか、それがまさに彼の作品としてどうなるべきものなのか、ということを全く知らず、やがて彼はその仕事を前にして「このような物を私は望んでいなかった。だが、今やそれをせねばならぬ。神よ助けたまえ!」と感じることがしばしばなのであります。──自我の青白い功名心などというものは偉大な作品が生まれる初めにあるものではなく、それが生まれ出る源泉ではないのです。功名心は芸術家にあるのではなく、作品にあるのです。作品は、芸術家が期待してもよいと信じた以上に、あるいは彼が恐れねばならぬと信じた以上に、遥かに多くのことを自己自身のために欲するものであり、作品は自分の意志を芸術家に押しつけます。ヴァーグナーは世間をあっと言わせるために、四夜にわたる大叙事詩を舞台にのせることを思いついたのではありません。それをせねばならぬということを、彼は驚きと、それにまたもちろん誇りの入りまじった喜びをもって、彼の作品から知らされたのです。










私は、これまでニーチェについて書かれた多くの書物に不満がある。それらはたいてい、ニーチェという人物とその思想を、何らかの意味で世の中にとって意味のあるものとして、世の中の役に立つものとして、描き出している。私には、そのことがニーチェの真価を骨抜きにしているように思える。ニーチェは、世の中の、とりわけそれをよくするための、役に立たない。どんな意味でも役に立たない。……ニーチェのなかには、およそ人間社会の構成原理そのものと両立しがたいような面さえある。彼は、文字通りの意味で反社会的な(=世の中を悪くする)思想家なのである。それにもかかわらず、いやそれだからこそ、ニーチェはすばらしい。他の誰からも決して聞けない真実の声がそこには確実にある。

彼は、すでに存在し、多くの人々が思い悩んでいた問題に、一つの回答を与えたのではない。だれも感じてなどいなかった問題をただ一人で感じ、ただ一人でそれと格闘し続けたのである。彼の仕事の意義は、彼自身の仕事のなかではじめてつくり出された。その仕事の意義を評価する価値基準そのものが、その仕事のなかではじめてつくられた。
これがニーチェだ

永井 均

講談社現代新書 660円+税

たとえば最近広末涼子がニーチェを読んだといっていたらしいし、もうずいぶん昔に荻野目慶子がキルケゴールを読んだといったらしい。で、それはべつに驚くべきことでもない。ニーチェやキルケゴールを読むことは難しくないから。少なくともこのふたりの哲学者がなにをいっているか知りたければ、「ソフィーの世界」なんか読まず、直接にふたりの著作に向かえばいいと思います。「え、こんなにおもしろい本だったのか!」ということになるかもしれません。しかもかなり高い確率で。ただ、おもしろいかもしれませんが、あなたは傷つくことにもなるんじゃなかろうか、と思います。で、その傷は癒えませんし、消えません(このことは以前の「それ、読みたい!」でもいいましたっけ)。だから、広末・荻野目(キルケゴールを読んでいてニーチェを読んでいないということはたぶんありえない。逆はあっても。)のふたりも傷ついていると私は思います。そんなふうになりたいですか?

(老婆心ながら、もしニーチェの「ツァラトゥストラ」を読もうとするなら、「ツァラトゥストラかく語りき」って邦題の方でなく、岩波文庫「ツァラトゥストラはこう言った」をおすすめしましょう。もし読もうとするなら、です、あくまで。)

それなのに、ここでまた「ニーチェのことを書いた本」をとりあげるわけなんですが、とりあげるほどに面白いからしかたがない。著者の永井均っていうひとの文章を「それ、読みたい!」で紹介するのも実は初めてじゃない

この本は、ある「劇薬」の性質と扱いかたについて書いてあるものだと考えていいかもしれません。

上の引用のふたつめはどうです? ニーチェの仕事がどれほど孤独なものだったか、そうして逆に、孤独というものはこういうものなんだな、と思わせてくれるような1節だと私なんかは感動してしまうんですが。

誰も考えないようなことを考えるのは孤独じゃないでしょうか? しかも、説明しても誰もわかってくれないとしたら? わかってくれないどころか憤慨されたりしたら? 「おまえ、変わり者なんだよ」でかたづけられてしまうとしたら? さて、そこで、あなたは自分がまちがっているのだということにしてしまうでしょうか? 評価するためにはそのための基準が必要です。しかし、その基準をも実はあなた自身が生み出さなくてはならないものだとしたら?

ニーチェがそうやってつくりあげていったものがどんなものだったか?
ここ数年もてはやされている例の問題にあてはめてみると、こうなります。

なぜ人を殺してはいけないか。これまでその問いに対して出された答えはすべて嘘である。道徳学者や倫理学者は、こぞってまことしやかな嘘を語ってきた。ほんとうの答えははっきりしている。「重荷になる可能性も考慮に入れて、どうしても殺したければ、やむをえない」──だれも公共の場で口にしないとはいえ、これがほんとうの答えである。だが、ある意味では、これは、誰もが知っている自明な真理にすぎないのではあるまいか。ニーチェはこの自明の真理をあえて語ったのであろうか。そうではない。彼は、それ以上のことを語ったのである。
世の中が面白くなく、どうしても生きる悦びが得られなかった人が、あるとき人を殺すことによって、ただ一度だけ生の悦びを感じたとする。それはよいことだろうか。それはよいことだ、と考える人はまずいない。あたりまえだ。殺される方の身になってみろ、と誰もが考える。そんなことで殺されてしまってはかなわないではないか。
だが、ほんとうに、最終的・究極的に、殺される方の身になってみるべきなのだろうか。自分の悦びの方に価値を認めるという可能性はありえないのか。このように問う人はまずいない。だが、ニーチェはそれを問い、そして究極的には、肯定的な答えを出したのだと思う。だからニーチェは「重荷になる可能性をも考慮に入れて、どうしても殺したければ、やむをえない」と言ったのではない。彼は、「やむをえない」と言ったのではなく、究極的には「そうするべきだ」と言ったのである。そこに相互性の原理を介入させる必要はないし、究極的には、介入させてはならないのだ。そうニーチェは考えたのだと思う。


それから、もうひとつ引用して終わりということにしたいんですが、その前にニーチェの重要な思想「永遠回帰」についてちょっと解説しておかなくてはなりません。で、その解説のためにおまけの引用もします。「永遠回帰」は「永劫回帰」とも訳されます。おまけでは後者。

永劫回帰という考えはミステリアスで、ニーチェはわれわれがすでに一度経験したことが何もかももう一度繰り返され、そしてその繰り返しがさらに際限なく繰り返されるであろうと考え、その考えで自分以外の哲学者を困惑させた。いったいこの何とも訳のわからない神話は何をいおうとしているのだろうか?
……ミラン・クンデラ「存在の耐えられない軽さ」(千野栄一訳)

この人生が一度きりのものでなく、そっくりそのまま永遠に繰り返される、という思想。よく、生まれ変わったら何になる? なんてことをいいますが、それとちがうのは、これはいまの自分をそっくりそのまま、何の変更もなしにもう一度、二度、三度、永遠に繰り返して生きるということなんです。ものすごくへヴィーなこと。ニーチェは、そのへヴィーなことを大いなる歓喜とともに受け入れるという選択をしようというのです。で、ありがちな解釈としては、そんなことになるんなら、いまのこの人生をよりよく生きなきゃだめだ、何度繰り返してもいいように後悔のないように生きよう、という方向へ走るわけなんです。

で、お待たせしました。最後の引用です。

ここでニーチェは、生が回帰するとしても後悔しない(=いとおしまねばならない)ように生きよ、などという説教をたれているのではない。また、生の回帰を信じて生きればよく生きられるとか、生の回帰が確証されればよく生きざるをえなくなる(だからみんなで回帰思想を信じましょう)といった、ふぬけた話をしているのでもない。そのような、生き方の内容の選択の余地は始めからもうないのだ。
たとえどれほど惨めな人生であっても、それがたまたま自分の生であり、それがなぜか存在したということ、そのことに外部からの評価をくわえることはできない。それがそのように存在したこと、そうであったこと、それがそのままの価値なのである。
これは驚くべき考え方である。それが驚くべきであることは、社会的に翻訳してみればすぐに分かる。社会的に見れば、それはどんな悪人も悪事も肯定するということに直結する。ナチスもオウムも、ホロコーストもサリンも、何もかも、すべてそのまま、また起こることを、大きな歓喜とともに受け入れる、ということである。
「『それはあってはならぬことである』『それはあってはならぬことであった』といった言い草は、ひとつの喜劇である……何であれ、何らかの意味で有害破壊的なものは取り除こうなどと思うならば、結局は生の源泉を滅ぼしてしまうことになるだろう」
これは究極の真理だと私は思うが、世界の中で人々に向かって語ることが社会的に意味のあるような主張ではない。同志を募るような種類の「思想」ではないのだ。


ここをクリックするとさらに余計なお世話あり







あるとき悪魔が、聖ペテロに野球の試合を挑んだという。
聖ペテロは笑っていった。「正気でいうのか。こちらにはベイブ・ルース、タイ・カップ、クリスティー・マシューソン、そのほか古今の大選手がついている。そちらにはだれがいる」
悪魔はにやりと笑って、「アンパイアがいる」
ストライク・ゾーン

ジム・バウトン エリオット・アジノフ
 村上博基 訳

文藝春秋 2286円+税
本好きアルバイト 益田くんからのおすすめ
……と、こんな文句を扉にして始まるこの小説。いうなれば野球人情小説というべきか。
野球描写は丁寧、試合展開ははらはら、でもって、いくたびかほろっと来るという素晴らしいことこの上ない心憎いまでの1冊である。

共著の作者の2人、ジム・バウトンは64年のワールドシリーズのヒーローとなったほか、オールスターの常連だった元ヤンキースの投手であり、エリオット・アジノフはフィリーズ傘下のマイナーチームの外野手だったが、第二次世界大戦で選手生活を断念。ライターとなり、ブラックソックス・スキャンダル≠扱った「エイトメン・アウト」で知られる人物とのこと。

物語の舞台はナショナルリーグ東地区優勝を決める大一番。前日のホテルで突如先発を告げられる投手、サム・ウォードの当惑と興奮から物語は始まる。年俸24,500ドルの、先発要員でも抑えでもなく、控え投手ですらない、32歳でやっとメジャーに上がったおっさんルーキー。妻にも逃げられた。それが、故障者続出で掴んだまぐれあたりのビッグチャンス。
もはやストレートに力はないが、のらりくらりの頭脳投球と跳ねるナックルがある。やる機会さえ与えられたらおれは出来るんだと思いながらこれまでチャンスはなかった。しかし、彼の最大の敵は相手チームの並みいる強打者ではなく、実はリーグ屈指の名アンパイアなのである。

審判には審判の事情があり、ふとしたわけで八百長を仕組まなければならなくなってしまった。どうあってもその投手を勝たすわけにはいかない。審判生活38年、5000試合の後の生涯最終試合がそんなことになるとは思いもよらなかったが、やむをえない。そして審判には試合を完全にコントロールする自信がある。野球の試合において審判を務めるには全てに完璧であらねばならない。八百長をしようというのなら、その完璧をも凌駕しなければならない。彼にはその自信がある。

なによりも、野球を描くのに投手と打者の勝負、剛速球とフルスイングの対決としてでなく、敵役に審判を持ってきたところがこの小説の最大のファインプレー。これにより必要以上に緻密な心理戦が展開され、読者の想像を掻き立ててやむことなし。長嶋茂雄が主人公ではこんな話は書けないのである。

物語の途中、自軍の投手に対して、おいおいこいつは大丈夫なのかとからかっていたチームメイトが、意外にやるもんだと見直してゆき、こいつのためにもなんとか勝とうじゃないかという過程はまさに本格野球小説。投手が自信と自らの野球人生を取り戻してゆくあたりは成長小説、老審判の回想シーンを混ぜて語るあたりは、なかなかしんみりきます。


なお、97年に出版されたこの本を、私はすぐに購入したにも関わらず、1年以上のあいだ未読のまま放っておいた。あとから「こんな面白いもの、もっと早く読んどきゃよかった」と後悔したものだが、当店の副店長は買ったまんままだ読んでいないという。そういえば私がこの本を貸した友人にきいたら、「ごめーん、まだ読んでないや」ときた。友人に、そして副店長に、さらには野球好きな方々に、とりあえず読んでね、といいたい。

あとは海老沢泰久「監督」(文春文庫)も読みましょう。国産野球小説ではこれが一番でしょう。







不肖・宮嶋
空爆されたらサヨウナラ


宮嶋茂樹

祥伝社文庫  562円+税
宮嶋茂樹、職業カメラマン……といっても、シノヤマキシンや加納典明のように、お姉ちゃんの裸ばかり撮ってるわけではありません。
宮嶋茂樹、職業カメラマン……彼は出版社や新聞社の社員カメラマンではなく、フリーランスのカメラマンです。だから1枚の写真も、他の雇われカメラマンと同じではだめなのです。(お金になる)すごい写真を撮らねばならない。そんなシビアな世界に生きているんです。

本書は祥伝社の文庫で宮嶋本としては2冊めになるもの。1冊め「不肖宮嶋死んでもカメラを離しません」は主に国内(1コだけ韓国)での話。ただしちょっとオゲレツ。写真界のゴルゴ13と自らを紹介する話や、あのオウム麻原を拘置所内で隠し撮りに成功する話とか…etc.

そしてこの「不肖宮嶋空爆されたらサヨウナラ」は、週刊文春派遣のカメラマンとしてユーゴ内戦(NATOが介入することにより紛争へ)に乗り込んだ体験記。あまりにも遠い土地での戦争、そして多くの日本人にとっては、あまり考えたことも感じたこともない強烈な民族問題。連日のニュースにもあまりピンとこない人が多かったのではないでしょうか? しかもそのニュースというのが(もちろん日本のメディアも現地入りしていましたが)親方≠bNNをはじめNATO寄りのメディアからの情報ばかりだったような気が……。

そんな情況のなか、宮嶋は軍事基地入りし、多くの惨状を自分の目とレンズでとらえてきました。日本のニュースでは決して放送されないNATOのミサイルによる爆撃──巻き添えにあい、家や家族を失った一般市民、黒コゲの労働者、バラバラに吹き飛ばされ、パズルのようになった少女──。

たしかにミロシェヴィッチは民主主義とは相対する大統領でした。(先日選挙に負けてコシュトニッツァ氏が大統領に)。また民族主義による内乱に向けては、国連や関係諸国による介入が必要だったとは思います。

でも、実際にそこで起きていることが正しく伝えられているかどうかは、ちょっと疑問です。俺は自分の目で見てやるぞ、撮っちゃうぞというのが宮嶋の考え(本当の動機はもっと不純ですが)です。たとえばみなさん憶えているでしょうか、橋を破壊しようとしたNATO軍が乗客が乗った列車……いや客車を誤爆した「事故」。宮嶋ははたして「事故」だったか? と疑問をもっているようです。彼はそれも写真におさめています。べつに反NATOとか反アメリカという姿勢ではなく、だけど何でも見ちゃうぞ、というカメラマン(メディア)は大国にとってかなりうっとうしい≠烽フでしょう。

宮嶋茂樹……憧れも尊敬もしないけどアンタはすごい。人間性にはちょっと問題あるかもしれないけど、私にはできないことをやっている。少なくとも本物のプロである。やっぱりちょびっとだけ尊敬することにする。







カウンタックの魅力というのは説明するようなものではない。
カウンタックの魅力は見ればわかる。
カウンタックを見たときに誰もが感じるあの衝撃──そこにカウンタックの魅力のすべてが説明されている。そいつはちょうど生まれて初めてジェット戦闘機が地上スレスレの超低空飛行で目の前をフライパスしていくのを見たときと同じだ。
ドカン!
心の蓋がはじけて飛ぶ。それまでのつまらない人生のなかでどこやらからひろい集めてきた大きなクソのかたまりのようなものが一瞬にして粉々に砕け散る。はじけて飛んで砕け散って風が吹き、どんより曇った鉛色の空にポッカリあいた星空ができる。男の子がクソだめから這いあがるのはこういうときだ。シルミン合砂型鋳造のV12、3929cc4カムの385馬力だろうが、バイパス比0.72のダーボファン、プラット アンド ホイットニーのF100だろうが、そんなもんはこの際もうどっちだっていいのだ。そりゃあ2000万円かもしれない。ホンの一部の人間だけの特権的独占物かもしれない。オレたちにはご縁のないクルマかもしれない。そんなことすらもうどっちだって……。
ただ凄い。
あんなものがこの世にあるというだけでも素晴らしい。
あんなものがかつてこの世に存在したのだという事実だけで嬉しい。
『スーパーカー』とはそういうものだ。そのなかでもカウンタックこそ極めつきだ。カウンタックこそスーパーカーのなかのスーパーカー、こいつは地上10m時速750キロの超低空フライパスのジェット戦闘機のようなものなのだ。
    Lamborghini Countach  スーパーカーのスーパーカーより
幻のスーパーカー

福野礼一郎

双葉社  1800円+税
この本は私の宝物の1つです……が、出版されたときは、正直あまり売れませんでした。たぶん読者層の狭い本だったからでしょう。その狭い読者層にはどんなひとがあてはまるんでしょうか。あてはまっていて、まだこの本を知らなかったというひとにはぜひぜひ読んでもらいたいです。
それはこんなひと……年齢は20代後半30台ぐらいのもちろん車好き。幼い頃スーパーカーブームの波にどっぷりはまっていたひと。小学校の頃カー消し≠BOXYのボールペンでつっついていた頃が懐かしいなんて方は特に。
(ただ、同じ車好きといっても、峠に行くとイニシャルがD≠ノなってしまうひとは別です)。
どちらかといえば湾岸でミッドナイト≠オてしまう、特にブラックバードなひと向きの本なのです。(※だからといって金曜・土曜は大黒でオーディオコンテスト≠ネひと、ましてやダサイ<pラパラ系@P.A.のひとには論外です)

ここまで書くと、知らない方、興味のない方にはなんのこっちゃ≠チて感じでしょう。そう、それくらい幅の狭い、だけどディープな本なのです。

いまこのオススメを読んでくださっているアナタ、この本に出て来るクルマのうち何台をご存知でしょうか? 見たことは? その素性を知っている方は? まさかステアリングを握ったことがある?

このテの話、私大好きですので、中途半端に書くと止まらなくなるので、これ以上は語りません。(べつに専門書ではないんですよ)。でも好きな人だったらきっと私と同じ感想をもつでしょう。[猪木の『道』ではありませんが、読めばわかるさ≠ナす]









小さい犬の日常

ポピー・N・キタイン 津田直美 画

中公文庫  571円+税
最近「癒し」という言葉をよく耳にします。私も「癒し」を求めている人間の一人ですが、この本を見つけた瞬間まず表紙に癒されました(おお、なんとかんたんに!)。

これは幸せな家庭生活を送ろうとする犬のための本です。犬のために書かれた本なので著者は犬、ポピーという名のヨークシャーテリアで、表紙からこちらを見ています(で、私を癒してくれたんでした)。ポピーは犬の生活研究者なんですが、どうしたら幸せな家庭犬生活を送ることができるかを考えています。そうして、よい研究方法がありました。人間を観察し、犬の生活とくらべるのです。人間を例にとることで、犬の幸せに役立つ知恵がとてもよくまとめられました。

これを人間が読むと、犬から見たら人間はそうなるのかと思わず納得してしまいます。

また、挿絵もかわいくほのぼのとしていますから、文庫本というより絵本感覚で手にとってみて下さい。ポピーは今年8才(人間でいうとおばあちゃん)になるそうです。そんなポピーの最後につづったページを読むとき、あなたの心はあたたかくなりますよ。







オヤジにならない
60のビジネスマナー


中谷彰宏

PHP研究所  1200円+税
みなさん「オヤジ」になっていませんか。最近私は限りなく「オヤジ」になってきたとつくづく思います。この本はまずチェックリストによって自分自身の「オヤジ」度をチェックし、さらに具体例をもとに「オヤジ」にならないためのいろいろなアドバイスが書かれています。この本での「オヤジ」とはマナー・態度・行動・言動等が良くないという意味で、男性だけではなく女性にもおすすめできると思います。

オヤジ度チェック60

・人を呼ぶときは、手招きで呼んでいる。
・人が挨拶してくるまで、自分からは挨拶しない方だ。
・説教は得意だ。
・素直に「ゴメン」というのは苦手だ。
・自分がお客の時は多少いばってもいい。
・声が大きいと言われたことがある。
・靴を脱ぐと気持ちがいいので、脱げる時はすぐ脱ぐ。
・食べるより、飲む方が好き。
・1軒目だけでは帰したくない。
・人の話を聞くより、自分の話を聞いてもらいたいほうだ。
・東南アジアに行くと、気が大きくなる気がする。
・肩書きがあれば、尊敬されると思う。

他48項目







魂のラリアット

スタン・ハンセン

双葉社  1600円+税
◎最近、プロレスは余り見ないのですが、かつて新日本プロレスがテレビ朝日と提携して、金曜8時のゴールデンタイムに放送があった頃はテレビに釘付けになっていたクチの原口です。あの頃は個性的な選手が多くて子供ながらに楽しんで見ていたのを今でも懐かしく思い出します。

ハルク・ホーガンブルーザ・ブロディアンドレア・ザ・ジャイアントダイナマイト・キッド…。国内に目を向ければ、衝撃の虎戦士・初代タイガーマスク、虎ハンター・小林邦昭キラー・カーン、そして国際プロレス残党軍

彼らのほとんどは、新世紀を迎えようとする今、一線を退いて後進の指導や第2の人生を歩む者が殆ど…段々と原口の知らない世界へと変貌を遂げています。今回紹介する本書の著作者、スタン・ハンセン氏もその一人。全日時代に今は亡きブロディ選手とタッグを組んだ「超獣コンビ」は、今でも最強タッグの代名詞として現在のプロレスファンの間でも語り継がれています。今回、氏が2001年の1月を以って現役を引退すると言う報を聞き、ここに紹介させて頂きました。
巷では、新日本の某選手が「日本一のラリアッター」と称されているそうですが、原口は声を大にして主張します!

 世界一のラリアッターは、スタン・ハンセンだ!

今回のオススメ度 ★★★★☆(氏のファンクス道場入門から、デビューまでの道のり、伝説のサン・マルチノ首折り事件の真相など、氏自らが語る秘話の数々。全日本分裂に関しての一考と、昭和プロレス・ファンには堪らない一冊。)







「狭い門から入らんかい。滅びに行きよる門は広いんやし、道も広々としとるし、そこを行きよるやつらはめちゃ多いんや。
せやけど、命に行きよる門は狭いし、そん道も細道なんやで。
せやさかい、そん道を見つけるもんは、これまた少ないときとるんや。」


「求めんかいな、ほなら与えられるんや。探さんかいな、ほなら見つかるんや。門をたたけや、ほなら開けてもらえるんや。
誰でも求めるもんは受けよることができるし、門をたたきょると、開けてもらえるもんなんやで。」
コテコテ大阪弁訳「聖書」

ナニワ太郎&大阪弁聖書推進委員会 訳

データハウス  1200円+税
◎続いて、「正調・アヤシイ本」編。クリスマスの喧騒も収まり、世の中は来るべき21世紀へのカウントダウンが始まって……あ、もう終わりましたが、ちょっと遅れてキリストネタのご紹介。今まで「聖書」と言うと、「クリスチャンの方以外は滅多に読まない本」と言うイメージが大いにあったと思います。(世界で最も売れた本なんですけれどねぇ…。)理由としては、キリスト教の宗教色が強く、固いイメージが付きまとうのが一因と思われますが、この本に関して言えば、それは当てはまりません。なんたって、

         大阪弁やでぇ〜!
                       しかも、
  コテコテでっせぇ〜!!

今までの聖書=お堅いイメージを根底から崩壊させる衝撃の一冊。お笑いでイエスの教えを説くと、「イエスはんは、こう言いはった…。」ってなカンジ。ちょっと、そこ行くお客はん、一冊買うてんか〜?
  今回のオススメ度 ★★★☆☆(新約聖書を関西弁で読ませようと言う斬新な着眼点は脱帽の一言。でも、正直楽しんで読ませてもらってマス。)





最強のプロ野球論

二宮清純

講談社現代新書 680円+税
本好きアルバイト 吉野くんからのおすすめ
──ピッチャーが投げたボールをバッターが打ち返す──
この単純な行為が野球の原点です。プロ野球でもそれは変わりません。
好投手と強打者との対決≠アれこそが我々ファンにとっての大な魅力の一つです。
では日本のプロ野球史上、最強の投手、打者は誰でしょうか。
もちろん、答えはこの本にも書いてありませんが、数多くの最強投手、最強打者の候補≠ェ細かなデータとともにとり上げられています。
いよいよ21世紀、その最初のシーズン前にあなたにとっての史上最強投手、打者を考えてみてはいかがでしょうか。











おいしい煮もの
和・洋・中入門


主婦と生活社  1300円+税
煮物といえば和風というイメージがありますけど(?)、ふだんはなかなか手をつけにくい洋風・中華風だって初心者にも簡単につくれます。

わかりにくいし、おぼえるのもおっくうな料理用語だって写真入りでわかりやすく説明してありますから、「だいたいこんなもんだろう?」と思って失敗することも少なくなるはず。

たとえば乾物です。「買ってきたはいいけれども、これいったいどのくらいの量をもどしたらいいの?」なんていって、ひじきや切干大根などを大量にもどしすぎ、何日も何日もこれが食卓に並んじゃう、ってこともなくなるでしょう。

ホワイトソースを作ったんだけれど、小麦粉のダマだらけ!ってことなんかもなくなるでしょう。

他にもまだまだ、野菜はどう切る?だしはどうとる?なんて基本的なことが、
それに、旬の野菜や魚を上手に使って経済的!な関西の煮物なんかも、
それぞれのレシピのカロリーももちろん書いてあって、とっても便利!










おいしいソース
人気のたれ ドレッシング
和風・洋風・エスニック


成美堂出版  1100円+税
レストランなどで食べていて「ソースたれドレッシングが違うだけでこんなにおいしいんだ!」と思ったことはありませんか? ドレッシングなんて家で使う市販のものだけだとどうしても味つけのパターンが限られてしまいます。それなら自分でつくっちゃえ!

たとえばハンバーグをつくるとき、大人はブラウンソースで、子供はトマトソースで、お年寄りは和風おろしソースで、と分けてつくれば家族みんなが大喜び。
こんな具合にソースひとつで、いつもの料理がまったくべつの料理かってくらいに変わります。

市販のドレッシングを和風・中華・洋風・エスニックと1本ずつ揃えておいたりすると、冷蔵庫で場所をとるだけじゃなく、使い切るまでなかなか他の味に手を出せないなんてことになりますが、自分でつくればそんな心配は無用。
食材にあわせて、その一度の食事のためだけのドレッシングをつくればいいんです。そうすれば、いろんなサラダがたのしめますよね。
それに、たれとかつゆをひとつつくれるだけで、今度は料理のレパートリーまでが増えていくでしょう。

ほんの少し手間をかければあなたも料理自慢の仲間入り!









ミラン・クンデラ「存在の耐えられない軽さ」(集英社文庫)の冒頭は次のとおり。

永劫回帰という考えはミステリアスで、ニーチェはわれわれがすでに一度経験したことが何もかももう一度繰り返され、そしてその繰り返しがさらに際限なく繰り返されるであろうと考え、その考えで自分以外の哲学者を困惑させた。いったいこの何とも訳のわからない神話は何をいおうとしているのだろうか?
永劫回帰という神話を逆に見れば、一度で消えてしまい、もどってくることのない人生というものは影に似た、重さのないもので、すでに死んでいるものであり、それが恐ろしく、美しく、崇高なものであっても、その恐ろしさ、崇高さ、美しさというものは無意味なものである。だから十四世紀にアフリカの二つの国家の間で戦われた戦争が、筆舌につくしがたい苦しみの中で三十万人もの黒人を殺したにもかかわらず、世界の顔を何一つ変えなかったように、まともにとりあげる必要はないのである。
十四世紀のアフリカの二つの国家の戦いが、永劫回帰の中で数限りなく繰り返されたとしても、何かが変わるであろうか?
変わる。それは目に立ち、永遠に続く塊となり、そのばかばかしさはどうしようもないものとなるであろう。
もしもフランス革命が永遠に繰り返されるものであったならば、フランスの歴史の記述はロベスピエールに対してこれほどまで誇り高くないであろう。……(中略)……歴史上一度だけ登場するロベスピエールと、フランス人の首をはねるために永遠にもどってくるであろうロベスピエールとの間には計り知れないほどの違いがある。


上の2つめの段落の文章には、私はちょっと不満なんです。これじゃわかりづらくないですか?

「永劫回帰って神話を逆に見ればさ、一度きりで回帰なんかしない人生っていうのは、影に似た、重さのないもの、終わってしまい、固まって動かないものなんだ。一度終わっちゃえば、終わり! そう考えてみればさ、たとえかつてはそれが恐ろしく、美しく、崇高なものだったとしても、そんな恐ろしさ、崇高さ、美しさなんてどうってことないよ! まともにとりあげる必要なんかないんだ。たとえばさ、大昔にアフリカのどこかで起こったひどい戦争なんだけど、なんと死者30万人! だけど、そのせいでこの世界が揺らいだりしたかい? 全然! 知ったこっちゃない! な、だから大したことじゃないわけよ」

……くらいの意味だと思うんですが。


それと、ちょっとした参考までに次の引用(これまた別の著者)をどうぞ。

だが、友よ。私が少なくともこのような生涯を選んだ理由があるとすれば、まさにそのような瞬間に、断乎として宿命と戦おうとする意志を自分のなかに確認するためだった、といえるであろう。私が故郷のあの懐かしい港町の裏通りで、妻と、妻の情夫を刺し殺したとき、私はいささかの悔恨も覚えることなく、もしそれが私の宿命であるならば、なんとしてもそれに屈しまい、なんとしてもそれを捻じ伏せねばならぬ、と誓ったのだ。
…………
そうなのだ。私は殺人を犯したばかりではない、乞食となり、こそ泥をやり、もっとも恥ずべき仲間にさえ身を売ったのだ。だがそれは私自身の意志で選びとったというただそれだけの理由で、私は運命に支配されているのではなく、逆に私のほうが、自分の運命を捻じ伏せ、運命に軌跡を描かしていることになるのだった。運命より、一足、前へ出て、運命の鼻づらを自分の思いのままに動かしていることになるのだった。
しかしそれは運命との刻々の鍔ぜり合いであり、私のほうが一瞬でもためらったり、おびえたり、自信をうしなったりすれば、すべてが反転して、逆に私が首の根を押えされ、振りまわされなければならないのである。
そうなのだ。私は自分に襲ってくるすべてのことを(たとえ道で石につまずこうが、馭者たちに身ぐるみ剥がれようが、それをさえも)、自分が意志し、望んだこととして、それにかじりつき、もぎとり、自分の腕にかかえこまなければならないのだ。どんなに運命が私の先を越そうとしても、私は必死でその前へ出て、「私がそれを望んだのだ。それは私の意志なのだ」と叫ぶのである。

……辻邦生「安土往還記」(新潮文庫)

前にも書いたことがありますが、ドストエフスキーの小説中に主人公のひとりが悪魔と会話するという有名な場面があります。その悪魔のせりふ。

「君はやっぱり現在のこの地球のことを考えているんだね! だって、現在の地球そのものも、ことによると、もう十億回もくりかえされたものかもしれないんだよ。地球が寿命を終えて、凍りつき、ひびわれ、ばらばらに砕けて、構成元素に分解し、また大地の上空を水が充たし、それからふたたび彗星が、ふたたび太陽が現われ、太陽からまたしても地球が生まれる──この過程がひょっとすると、すでに無限にくりかえされてきたのかもしれないじゃないか、それも細かな点にいたるまで、そっくり同じ形でさ。」
……「カラマーゾフの兄弟」原卓也訳(新潮文庫)











第6回 新世紀に新しい波を!

激動の20世紀も終わり、世間も新世紀≠キーワードにいろいろなイベントが行なわれています。今回はそんな新世紀をニギわしてくれそうな新人作家さんたちを選んでみました(メジャーデビューという意味で)。

選んだ作家さんたち以外にも、
征矢友花先生、響直美先生、海月志穂子先生、や[花ゆめ]系の作家さん、また<ビッグコミック・スピリッツ>で『机上の九龍』を連載していた青木朋先生(これは本当にオモシロイです! 単行本が出たら是非読んでほしい!)などイッパイオススメしたい先生方があるんですが、今回は、
まだ単行本を出していない方で設定しました。

他にもこの人! という作家さんがありましたら、メールなどでお知らせください。みんなで応援して、新世紀のコミック界を代表する作家さんになってもらいましょう。






田村マリオ
<マンガF>2月号より連載開始

『社会不適格者の穴』
みなさん、<マンガF>という雑誌はご存知でしょうか?
毎月30日発売です。あの『バトル・ロワイヤル』を出している太田出版から。

この<マンガF>、かなりスゴイ新人作家さんが多数執筆していて、なかでも群を抜いているのが中村明日美子先生と、今回選んだ田村マリオ先生のおふたり。

田村マリオ先生は、第1回エロティクス・マンガ賞で入選後、<マンガF>で2〜3回読み切り作品を掲載しており、昨年12月末発売の同誌2月号より『社会不適格者の穴』という作品を連載スタートさせています。

山本直樹作品、松本大洋作品が好きな方、またはサブカル好きな方には是非読んでいただきたい作家さん。




乃木坂太郎
<週刊少年サンデー>'01年2・3合併号まで連載 完結

『キリンジ』
悲しいです! 連載が終わってしまいました。この原稿を書くまで終了に気づかず、みなさんにオススメしようと力を入れて原稿を仕上げ、もう一度<サンデー>を開いてみると、なんと「完」の文字を見つけてしまいました。(扉をみると「短期集中連載」と書いてあるし…)

つては冒険好きだった少年が「囚神」と出会うことで「冒険心」をとり戻していくというもので、次の展開を楽しみにしていたんですが……最近の<サンデー>の新人作家さんたちのレベルがかなり高い(『トガリ』『ファンタジスタ』『リベロ革命』など)なかでもチョット注目していたんですが……。

<サンデー>編集長! 連載再開を熱望します。是非ご検討を!(『トガリ』も連載復活組だし!)。

ちなみに「FFX」が好きな方、「ドラクエ」の転職で迷わず「盗賊」を選ぶ方には特にオススメです。





森高夕次 松島幸太朗
<週刊少年チャンピオン>にて連載中

『ショー☆バン』
少年マンガといえばやはりスポーツもの。なかでもやはり野球マンガはどの少年誌でも必ずひとつは連載しています。『ROOKIES』『ドカベン』『MAJOR』『雷神』『Dreams』など数多くある作品のなかで、いま気になるのがこの『ショー☆バン』です。

学生にしては人並み以上の野球をしていた主人公が中学に進み、野球部に入ってみると、これまでの技術の大半が通用しないという壁に突き当たる。その壁を努力で乗り越え、成長していく、まさに野球マンガの「王道」ですが、名作『キャプテン』の雰囲気があり、ひょっとするとかなりオモシロイ作品になるのではと期待しています。
早ければ2〜3月頃に単行本第1巻が発売されると思いますので、正統派少年マンガ好きの方はご一読を!
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